土屋 文明 (つちや ぶんめい)
1890~1990年 群馬県生まれ。歌人、国文学者。
旧制高崎中学在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。上京後、伊藤左千夫に師事し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加。伊藤左千夫の好意により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学に進学。菊池寛や芥川龍之介と第三次「新思潮」に参加し、小説や戯曲を発表しながら作家活動をする。大学卒業後、作家活躍と長野県の女学校教頭、校長として教育に尽力する。
ふたたび上京し、法政大学予科教授だった1925年に第一歌集『ふゆくさ』を出版。1930年(昭和5年)に斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぐ。
1930年『往還集』1935年『山谷集』1942年『六月風』歌集を刊行。第二次世界大戦中、中国戦線を視察、1946年『韮菁集』刊行。東京空襲後群馬県に疎開、敗戦を迎える。
戦後、1948年『山下水』1953年『自流泉』など歌集を出し、昭和歌壇を代表する歌人となる。また、『万葉集』研究者としても活躍する。
土屋文明 短歌
今朝ははや咲く力なき睡蓮やふたたび水にかげはうつらず 『ふゆくさ』
この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず
榛並木さゐさゐ沈む原遠く地を伝わりて来る音あり
ひるすぎの暑さは迫るこの三月三度うつりてなほせまき家
山の上は秋となりぬれ野葡萄の実の酸きにも人を恋ひもこそすれ
新しき橋つくり居り赤々と焼けたる鋲を投げかはしつつ 『往還集』
ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交絶てり
父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼く
流れ合ふ池の水口にあぎとふは生きのこりたる鯉群るるなり
吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたかりき
新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな 『山谷集』
嵐の如く機械うなれる工場地帯入り来て人間の影だにも見ず
子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず
三月の尽くらむ今日を感じ居り学校教師となりて長きかな
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす
にぎはへる銀座ゆきつつおのづから吾が感 情は戦争を肯定す
春の日のかぎれる中にひらめきて鉄截る酸素の焰きびしき
稀に見る人は親しき雨具して起重機の上に出でて来れる
みんみん蝉あまた鋭く響ければあはれ衰へてつくつくほふし啼く
無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ
吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は
勢を揃へ京に向ふ時すらに直き古は畏るること知りき 『六月風』
並槻のすがるる上にたなびきてあな長きか な白き煙の
半島人内地人外国人中に外国人優越者の如くあゆめり
引きずり出す鉄板の見る見る黒く冷えゆくをたたき折りぬ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
吾等追ひぬき大股にすぎし毛唐一人裸になりビールをのみつつ立てり
垢づける面にかがやく目の光民族の聡明を少年に見る 『韮菁集』
七月に雪水到り甘粛の雨水は到る九月なかばごろ
ほこりたて羊群うつる草原あり黄河の方はやや低く見ゆ
吾妻を利根に越えゆく中山に山を照らして今日の山吹『山下水』
初々しく立ち居するハル子さんに会ひましたよ佐保の山べの未亡人寄宿舎
歌よみが太平楽をならぶるを年のはじめの滑稽とする
折あらば奈良にゆきハル子さんを見たまヘな藷うゑ静かな寄宿舎なり
垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ
かにかくに論ふともうぬらが母の言葉のひびく国に起き臥す
険しくして狭き畑に掘り並ぶる甘藷に午後の影しるく立つ
にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ
評論はわけのわからぬを常として我がことあればそのめぐりだけ読む
わが庭に植ゑたる葷きもの六種韮にんにく分葱浅葱葱玉葱
あはれみて音を住まはす村人のかこへる野菜少しづつくれる 『自流泉』
音たてて流るる水は春の水ぎしぎしの紅の芽を浸しゆく
帰り来しつばくら二つ去年の巣を少しつくろひ住みつかむとす
澄みとほる西日となりて此の谷のははそのもみぢはてしなく見ゆ
正岡の升さんあり子規あり就中我が命寄る竹の里人
善き夫直き子供等にみとられて静かなりける臨終をきく
吾が植ゑし農林一号二十二株むらがる白花風に靡くなり
白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか 『青南集』
能なきをよりどころとし過ぎて来てわづかに残る努めむ心 『続青南集』
見おろしにひびく滝水練絹をかけてかがやく那智の補陀落
寝たきり老人はたまらぬと手足に命令す朝は既に午に近づく 『青南後集』
今朝ははや咲く力なき睡蓮や水に再び影は返らず (歌集未収録)
左より少し大きな右こぶし貧しき九十五年 の一生を示す
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