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石田比呂志 (いしだひろし)
1930年~2011年 福岡県出身。 歌人。本名は裕志。
1930年に福岡県京都郡小波瀬村二崎(現苅田町)で生まれた歌人。父嘉平次、母清香のもとに長男として生まれ、1944年に福岡県立豊津中学校(旧制)に入学しましたが、素行不良のために退学処分となりました。その翌年、1945年には国家総動員法により筑豊の炭鉱に徴用され、採炭に従事させられましたが、乙種飛行練習生として海軍に合格するものの、同年8月の敗戦でこの経験は終わります。
1946年、石川啄木の『一握の砂』を読んだことがきっかけで歌人を志しました。彼は歌に強く惹かれながらも、その後の人生では様々な職を転々としました。水道工事人夫、キャバレーの支配人など、40以上もの職業を経験したとされています。1954年には、山口県宇部市の土方飯場で働いていた時に「毎日歌壇」に投稿した歌が窪田空穂によって採用され、初めて自作が活字となるという貴重な経験をしました。この出来事が、石田の歌人としての道を切り開くきっかけとなります。
1955年には第1回角川短歌賞で入選し、1957年には歌誌「未来」に入会して近藤芳美に師事しました。翌年には「未来」に所属する歌人、山埜井喜美枝と結婚しますが、この結婚は後に1975年に離婚という形で終わります。石田はその後も活発に歌を詠み続け、1974年には大分県中津市で歌誌「牙」を復刊し、自ら主宰となりました。この歌誌は石田の代表的な活動の一つとなり、彼が庶民の生活や感情を歌い上げる場所として重要な役割を果たしました。
石田の作品は、口語や俗語を自在に取り入れた表現が特徴で、市井に生きる庶民の感情を力強く、時には無頼派的な姿勢で歌い上げてきました。彼は肉体労働に従事していた自身の経験を基に、多くの短歌で庶民の苦しみや喜びを描写しています。特に、1978年に発表した第四歌集『琅玕』は大きな評価を得て、第24回熊日文学賞を受賞しています。また、1985年には「手花火」30首で第22回短歌研究賞も受賞しました。
晩年には、熊本市に移住し、そこで生涯を送りました。石田は2011年2月24日、脳内出血により永眠し、彼の遺言により、彼が主宰していた「牙」は石田の死とともに終刊となりました。彼の門下には、阿木津英(後に妻となる)、島田幸典、浜名理香などがいます。石田比呂志は、歌を通して庶民の生活や感情を真摯に描き続けた歌人であり、彼の作品は現在も多くの人々に愛されています。
石田比呂志 短歌
〈職業に貴賤あらず〉と嘘を言うな耐え苦し みて吾は働く 『無用の歌』
人の上に出でざることもようやくに潔しとし涙流れぬ
ゆうぐれの光遍き巷次過ぐ沈く思いは香のごとしも出典 『蝉声集』
はらわたに花のごとくに酒ひらき家のめぐりは雨となりたり 『滴滴』
肝病みて酒絶つ友が店頭の魚に寒く水打ち ている 『九州の傘』
春宵の酒場にひとり酒啜る誰か来んかなあ誰あれも来るな
ふる里に十八年東京に十一年肥後に十一年夢さめて思えば
路上ゆくかの老犬も歳ひとつ積みしかおのれ祝うとてなく 『孑孑』
石田比呂志 著作
- 無用の歌 白玉書房 (1965年)
- 怨 牙短歌会 (1973年)
- 蝉声集 短歌新聞社 (1976年)
- 琅玕 短歌新聞社 (1979年)
- 長酣集 松下書林 (1981年)
- 定型の霜 歌書 牙短歌会 (1982年)
- 鶏肋 不識書院 (1983年)
- 滴滴 現代書房新社 (1986年)
- 九州の傘 砂子屋書房 (1989年)
- 石田比呂志歌集 砂子屋書房 (1990年)
- 孑孑 砂子屋書房 (1992年)
- 老猿 砂子屋書房 (2002年)
- 春灯 砂子屋書房 (2004年)
- 萍泛歌篇―石田比呂志歌集 (2006年)
- 続 石田比呂志歌集 砂子屋書房 (2008年)
- 流塵集―石田比呂志歌集 砂子屋書房 (2008年)
- 邯鄲線 砂子屋書房 (2010年)
- 無用の歌 現代短歌社 (2013年) 〈参考: ウィキペディア〉
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