【坪野哲久】知っておきたい古典~現代短歌!

曼珠沙華(彼岸花)

曼珠沙華(彼岸花)

坪野 哲久 (つぼの てっきゅう)

1906~1988年  石川県生まれ。 歌人。本名久作。

東洋大学支那哲学科卒。 東京ガスに入社。「アララギ」に入会。島木赤彦に師事。島木赤彦没後は小泉苳三主宰の「ポトナム」同人となる。1929年、プロレタリア 歌人同盟を結成。1930年、プロレタリア系出版社戦旗社に勤務。

1930年、第一歌集『九月一日』 を発行するが発禁。1931年、山田あきと結婚。1932年、結核にかかり、ストライキ中に喀血し療養生活を送る。喀血、検挙の苦難に耐え、1939年『百花』を刊行する。1940年『新風十人』に参加。同年『桜』を刊行。

 

坪野哲久 著作

1930年 歌集『九月一日 』 紅玉堂書店

1939年 歌集『百花』 書物展望社

1940年 歌集『桜』 甲鳥書林 昭和歌人叢書

1958年 歌集『北の人 』 白玉書房

1958年 『昭和秀歌』 理論社

1958年 『万葉秀歌 上 』 理論社

1971年 歌集『碧巌』 短歌新聞社文庫

1988年 歌集『人間旦暮 』 不識書院

1989年 歌集『留花門 』 邑書林

1993年 『坪野哲久全歌集』

2006年 『坪野哲久小説集 生誕100周年記念』

〈参考: フリー百科事典〉

坪野哲久 短歌

あぶれた仲間が今日もうづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら 『九月一日』

天地あめつちにしまける雪かあはれかもははのほそ息絶えだえつづく 『百花』

母のくににかへり来しかなや炎々と冬濤して太陽しづ

冬潮に母のしかばね皓として運ばれしゆめうるはしかりき

秋のみづ素甕すがめにあふれさいはひはひとりのわれにきざすかなしも 『桜』

新しき障子をしてこもらヘば秋はやも白毫びゃくがうのひかりかなしも

おろかなる存在よなと凝視すればわれにふれ何をかきらめかし去る

昼みてし牡丹桜のおほいさや守宮やもりゐすくみ障子暮れおつ

曼珠沙華のするどきかたち夢にみしうちくだかれて秋ゆきぬべき

胸ふかくつちかひし花くるひ咲きつひにおもねるすべさへしらず

おとろへて蛇のひものの骨をかむさみだれごろのわが貪著どんぢやくよ 『新宴』

蕗の葉の円きひかりをみるときにみなぎりきたれあすのいのちは

八重桜(牡丹桜)

八重桜(牡丹桜)

涸れがれてまはれ野のへの水ぐるまとぼしきみづのいのちそふもの 『一樹』

春潮はるしほのあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず

あたらしき世界国家のあくがれを説くともあらず子と地球儀まはす 『北の人』

蟹の肉せせりくらへばあくがるる生れし能登の冬潮の底

充実は涙のはてに成るべきか風なめらかに流るるをきく

にのせし塩の結晶かかるものに激しく暗くあつきものわく

灰皿に吸殻にじり階くだるこれしきをも生の軌跡といふか

貧しきを前進の糧となすことも強いられてある歴史の一つ

日本海の荒ぶる波の一生ひとよとも肌すり生きてなおし雪の香 『碧巌』

ひたすらに夜の明くる待つ霜白き一つの橋を渡らんのぞみ

「文学と政治」あに二元なるらめや一身透過のあぶらしたたる

われの一生ひとよせつなくとうなくありしこと憤怒のごとしこの悔恨は 

北くには木枯のさと雪のさと夜半の夢さえすさぶならずや 『胡蝶夢』

たまきはる命というはじゅのごとく露のしとどに過ぎゆきぬべし

老人のぼくだけですね雨のなか生ごみとい物を運ぶは 『人間旦暮 秋冬篇』

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