【与謝野 鉄幹】『32選』 知っておきたい古典~現代短歌!

酔芙蓉

酔芙蓉

与謝野 鉄幹 (よさの てっかん)

1873年~1935年 京都生まれ。 歌人、詩人。 本名は寛。

京都市外岡崎の西本願寺支院願成寺に生まれる。父、礼厳は勤皇の僧として活躍。明治維新後は病院創設など各種事業に従事。『礼厳法師歌集』がある。寺の没落に伴い、鉄幹も少年時代から他家の養子になる時期もあった。

1892年(明治25)上京。落合直文の門に入り、あさ香社の主要門弟となる。日清戦争のナショナリズムを追い風にして、1894年(明治27)御歌所派の「現代の非丈夫的和歌」を「亡国の音」として批判した。1900年(明3)、「自我の詩」「新しき国詩」の創造を目指して「明星」を創刊。与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子ら女流歌人を育てた。

1896年『東西南北』、1897年『天地玄黄』、1901年『鉄幹子』など旧派和歌的な、男性的で勇ましい歌風色合いが、晶子との恋愛などで第三詩歌集1901年『紫』に転調をもたらした。妻与謝野晶子とともに浪漫主義文学運動を推進した。

与謝野 鉄幹 歌集

1896年 歌集『東西南北』

1897年 歌集『天地玄黄』

1901年 歌集『鉄幹子』

与謝野 鉄幹 短歌

韓にして、いかでか死なむ。やまとには、/父もゐませり、母もゐませり。『東西南北』

からにして、いかでか死なむ。われ死なば、 をのこの歌ぞ、また廃れなむ。

韓山からやまに、秋かぜ立つや、太刀なでて、/われ思ふこと、無きにしもあらず。

雲のかよひ路、こころはかよふ。/富士の高嶺に、人知れず。

末の世は、人の、国さへ、売られけり。/たふときものは、黄金ならずや

野に生ふる、草にも物を、言はせばや。/涙もあらむ、歌もあるらむ。

益荒夫の、おもひ立ちたる、旅なれば、/泣きてとどむる、人なかりけり。

もみぢ葉も、心あるらむ。見てあれば、赤き方より、まづこぼれけり。

泣いて叫ぶ黄色無能かうしょくむのう、黄色無能、アジア久しく語る児の無き 『鉄幹子』

秋かぜに胸いたむ子は一人ならず百二十里を今おとづれむ  『紫』

芙蓉

芙蓉

新しきかむりたまはり人を載せて西にし七百里蘇州そしうへわたる

恋といふも未だつくさず人と我とあたらしくしぬ日の本の歌  

酒をあげて地に問ふ誰か悲歌ひかの友ぞ二十万年この酒冷えぬ  

そや理想りさうこや運命の別れに白きすみれをあはれと泣く身  

やまと歌にさきはひ賜へ西の空ひがしの空の八百万はほよろづの神  

わが涙わが手にうけて泣くだにも人とかく云ふ世の常の恋

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子  

かがやかに我が行く方も恋ふる子のあるかたも指せ黄金向日葵こがねひぐるま 『毒草』

大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙のながるるものを 『相聞』

かなしみはれし芭蕉ばせうの葉を越えて白き硝子を打ちぬ夕暮  

赤い薔薇

赤い薔薇

神無月伊藤哈爾賓かんなづきいとうはるびんに狙撃さるこの電報の聞きのよろしき  

な憂ひそ君を継ぐべき新人はまた微賤より起らむとする  

わが雛はみな鳥となり飛びんぬうつろの籠のさびしきかなや  

わかうどは少女をとめに足らず衣嚢かくしより取う出て吸ひぬ WHISKYのびん  

われ一つ石をぐればとをたにひゃくうろあり鳴り出でにける

いたましく駱駝の如く膝折りて痩せさらぼへる我れを見に来よ 『鴉と雨』

妻を見て寒く笑ひぬ貧しきは面を合せて泣く暇も無し  

もの云ひてもえぎの蚊帳をくぐり来る我児は清しうら寒きほど  

母恋ひてむかし眺めしさくら嶋年経て見れば母かとぞ思ふ 『霧島の歌』

幼な児が第一春と書ける文字ふとくはねたり今朝の世界に 『与謝野寛短歌全集』

ひんがしの国には住めど人並に心の国を持たぬ淋しさ  

寒き路紙の片にもあたひせぬ人屑として夕かぜぞ吹く (歌集未収録)

薔薇

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