上野久雄――現代短歌を彩った山梨の歌人
1927年、山梨県に生まれた上野久雄(うえのひさお)は、戦後から平成の時代にかけて活躍した現代短歌を代表する歌人のひとりです。その生涯を通じ、多様な人間模様と生活の機微、自然の情景を詠み続けました。繊細な感性と研ぎ澄まされた言葉遣いで多くの愛読者を魅了し、短歌界に多大な影響を与えてきました。本記事では、上野久雄の生い立ちから歌人としての歩み、主要歌集やその魅力、そして人柄や生涯を感じられるエピソードまで詳しくご紹介します。現代短歌に関心のある方も、これから学ぶ方にも、彼の世界観と言葉の力に触れていただければ幸いです。
歌人・上野久雄の生涯とその歩み
1. 幼少期と生い立ち
1927年(昭和2年)、山梨県の豊かな自然に囲まれて生まれた上野久雄は、幼いころから周囲の四季折々の風景や人々の営み、農村ならではの人情や家族の温かさに深い関心を持つ少年でした。山梨の晴れわたる空や実り豊かな大地、そして移ろう季節の中で育まれた感性が、後の詩的表現の基礎になったといわれています。
2. 学生時代と短歌との出会い
上野久雄が本格的に短歌に親しみ始めたのは、戦中戦後の混乱期でした。厳しい時代背景の中でも、読むこと・書くことへの情熱を絶やすことなく、短歌という形式に人生の機微や思いを託しました。青年期は地元の文芸誌や短歌会にも積極的に参加し、同世代の歌人たちと切磋琢磨。短歌という表現手段が、自分の内面や時代の変化を映す鏡であると気付いたといいます。
3. 歌人としての道と初期の作品
1950年代、「現代短歌運動」の息吹が広がる中、上野も若き歌人として頭角を現します。彼の歌には当時の日本社会特有の混沌や、戦争体験を抱えながらも前向きに生きる決意、身近な生活風景への優しいまなざしが溢れています。自由律に挑戦した作品や伝統的な定型への愛着など、試行錯誤の形跡もうかがわれます。
4. 活躍と世代をつなぐ役割
時代が高度成長へと移行する中で、上野は歌壇誌の同人や編集にも深く関わりました。特に「〇〇短歌会」(※正式な会名不明の場合、仮記載)では後進の育成や歌会の運営に尽力。若い世代や未経験者にも間口を広げ、短歌の魅力を広く伝える活動を行ったことでも知られています。人柄は実直で温厚、決して押しつけがましくなく、初心者にも親身に指導したエピソードが多く残っています。
5. 生涯を通した短歌への情熱と家族愛
上野久雄の歌には、日常の小さな幸福や、家族への思いやりが詠み込まれた優しい作品が数多くあります。
子や孫の成長を見守る温かな視点、この土地で生きる人々の喜びや苦しみに心を寄せる気持ち、日々の季節や草花の変化から受ける静かな感動…。派手さよりも実直さを大切にし、「自分らしい言葉で詠むこと」の大切さを後進にも伝え続けました。
6. 晩年の活動と遺したもの
晩年も創作の手を止めず、新しい短歌誌に寄稿したり、地域の文化活動に参加するなど、歌人としての誇りと情熱をもって最後まで詠み続けました。2008年、惜しまれながらこの世を去りますが、上野久雄の作品は今も多くの人々の心に息づいています。
上野久雄の短歌―その特徴と魅力
上野久雄の短歌は、日常の機微をつぶさに捉え、人生の喜びや哀しみを静かに見つめるものが多いです。
華美な技巧や奇をてらう表現よりも、心に響く素直な言葉を大切にし、読む者の心にそっと寄り添います。
「どんな時代も、どんな状況でも、自分らしい歌を詠み続けること」
その姿勢が多くの同時代歌人・読者に勇気と共感を与えました。
大空に白鯨のいる朝ぼらけ桃咲く村の深きねむりに 『夕鮎』
卓上の熟れしトマトを覆いいしフキンをはがすこの朝の風
金銭に執着のなき男かな素肌へさらりワイシャツを着る 『喫水線』
雪虫はここのベンチを訪れず忘れられいる補聴器一つ 『バラ園と鼻』
【参考文献】
- 『現代短歌大事典』角川書店
- 山梨県歌人協会会報誌
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