川と河川―日本人の心に流れる水辺の風景と言葉
「川」「河川」という言葉を広辞苑などで引いてみると、その意味は「地表の水が集まって流れる水路」「河川」あるいは「顆粒」といった、どこか味気なく、情緒よりも理にかなった定義が並んでいます。しかし、私たち日本人にとって、「川」はただの水の通り道ではありません。古くから人々の暮らしのそばにあり、詩歌や物語の中にもたびたび登場してきました。例えば、日本最大の流域面積を持つ利根川。どんなに雄大とはいえ、アメリカのミシシッピ川のように大河小説や文豪の逸話で語られることは珍しく、その姿にはどこか慎ましさを感じさせます。
明治時代初頭、日本にやってきた外国人は、日本の川を見て「川らしい川がない」と繰り返し驚きの声を上げていたといいます。隅田川や利根川を案内しても、「これが川か」と納得してくれない。逆に、「これはホール(滝・fall)ではないのか?」と言う有名なエピソードも残っています。その理由のひとつは、欧米諸国の大河が、各地を結ぶ交通路として発展してきた歴史にあります。地中海からドーバー海峡、バルト海から国会(黒海)へ、遙か大陸の上流から運河を使って船が行き来し、物資や文化を伝えていました。一方、日本の川は山々から流れ出る雨水を短い距離で一気に海へと運びます。そのあまりの急流ぶりに、欧米の旅人も「これでは“大きな川”とは呼びづらい」と驚いたのかもしれません。
それでも日本の川は、小さいながらも多彩な表情を見せ、日本人の暮らしや心に溶け込んできました。時には行き交う人の縁をつなぎ、また時には自然災害として恐れられてきた――そんな「川」に寄せる思いや、歴史を紡いできたのが短歌です。短歌は31音という限られたリズムの中で、自然や人生の機微を見事に描き出します。川はその題材として、古代から現代に至るまで、日本人の心を映し続けてきました。
【古代の川と短歌―万葉の水辺に寄せて】
日本における「川」は、ただの自然現象ではなく、早くから人々の想いや祈りの対象でした。その証拠に、日本最古の歌集『万葉集』にも「川」を題材とした歌が数多く収録されています。たとえば、「春の野に すみれつみにと 来し我そ この川を 渡るなりけり」(山部赤人)は、日常の中にある川越えの一コマを、春の訪れと重ねて詠んでいます。
奈良時代、都は川を中心に栄え、川は交通や運搬の要でもありました。身分を超えた人々の出会いも、しばしば川辺で起こったといわれています。川の向こうとこちらの世界が交わる場所――それが、日本における川の独自性です。そして短歌は、時に別れや再会、人生の哀感や歓びを川の流れになぞらえて表現してきたのです。
【中世~近世:川と人の物語】
時代が下って中世や近世になると、川はしばしば「境界」や「旅」の象徴として詠まれました。『新古今和歌集』には、「さらぬだに うちぬる夜半の ほどなきに 恋しき人の かわとなりけり」(藤原定家)という歌があり、夜ごとにあふれる想いを川の流れに託しています。
また、離れた場所にいる恋人や家族への気持ちも、川の向こう側にいる人への手紙や贈り物が運ばれる様子に重ね合わせて詠じられました。川は人を隔てるものですが、同時に人を結ぶ懸け橋にもなる。こうした二面性が、短歌という凝縮された形式で豊かに表現されてきました。
川を題材にした物語として有名なのが、岡本かの子の『玉川のもの』です。短歌と川の世界観を物語へと昇華させたこの作品は、水の流れが命の循環や人間の情念と深く結びついていることを描いています。岡本かの子自身もまた、短歌を通じて川に心を寄せた一人です。
【明治以降―西洋人から見た日本の川】
明治時代、西洋からやってきた外国人は、日本の川の小ささや流れの速さに戸惑いを覚えました。マーク・トウェインが描いた偉大なミシシッピ川とは対照的な、日本の川の姿。川は短く、しかも時に急流となって一気に海へと流れ下る――そのため、外国人旅行者たちは「日本には本当の川がない」と言い募ったといわれています。
けれどもこうした視点の違いこそ、日本の川と文学の個性でもあります。山河が多い風土の中で、雨や雪解け水がすぐに海に達し、わずかな時間で表情を変える日本の川。その儚くも豊かな変化こそが、短歌に込められる「もののあわれ」の感覚と呼応しているのです。
隅田川や利根川、あるいは玉川や吉野川。これらの川はいずれも、美しい自然景観とともに、多くの和歌・短歌の中にその名を残しています。川が四季折々に見せる美や、洪水などの災害との戦いもまた、短歌の大切な題材となってきました。
【川辺に息づく現代の短歌と私たち】
現在でも、日本の川は人々の憩いの場であり、短歌や俳句など文学作品の中に生き続けています。現代の歌人たちは、自然と都市のはざまでゆれる川の表情や、川と向きあう自分自身の心情を自由に詠んでいます。
たとえば、「夕暮れの多摩川、犬と散歩する子どもたちを見て、過ぎ去った日々を思い出した」という現代短歌は、誰もが持つ原風景や家族への想いを、身近な川と重ねて表現しています。川辺を歩くとき、ふと立ち止まって流れに耳を傾ければ、昔から多くの日本人が川に寄せてきた想いや、歌に託した情熱がぬくもりとなって胸に響いてくるのです。
このように、日本の川は大河でなくとも、気候風土の中で強く優しく流れ、短歌という日本独自の詩形で語られ続けてきました。日常の景色の中にも、先人たちが詠んだ川やその流れを感じることができます。世界中どこを見渡しても、日本の川のように、生活と心に寄り添い、文学の宝となった水辺は多くありません。
川・河の短歌(和歌)
見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆる事なくまたかへり見む 柿本人麻呂
もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らず 柿本人麻呂
遠つあふみ大河ながるる国なかば菜の花さきぬ富士をあなたに 与謝野晶子
やはらかに棚あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとく 石川啄木
南より魚野川に激ち入る矢破間川の白波見ゆる 宮柊二
オレノフカサオレヲナガレタチ(血)ノクラサシルソウメイノメヲ」ヴォルガガワ 岡井隆
母と娘のあやとり続くを見ておりぬ「川」から「川」へめぐるやさしさ 俵万智
四方の河溢れ開けばもろもろの叫びは立ちぬ闇の夜の中に 伊藤左千夫
ひがしよりながれて大き最上川見おろしをれば時は逝くはや 斎藤茂吉
海に出てなほ海中の谷をくだる河の尖端を寂しみ思ふ 高野公彦
七月に雪水到り甘粛の雨水は到る九月なかばごろ 土屋文明
参考文献
- 『万葉集』
- 岡本かの子『玉川のもの』
- 広辞苑 第七版
- 『新古今和歌集』
- 『日本の川と人の暮らし』(NHK出版)
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