阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
生い立ちと家系
698年に生まれ。彼の家系は名門で、祖父は筑紫大宰帥・阿倍比羅夫、父は中務大輔・阿倍船守という高位の官人でした。また、弟に阿倍帯麻呂がおり、彼もまた朝廷に仕えた人物です。阿倍家は奈良時代の貴族として知られており、仲麻呂もこの家柄にふさわしい教育を受け、優れた学識を持つ人物として知られていました。
遣唐留学生としての入唐
養老元年(717年)、遣唐使の一員として唐に渡りました。この時、押使の多治比県守、大使の大伴山守に従い、後に日本でも著名になる吉備真備と共に遣唐留学生として唐に入ります。彼は唐において「仲満」という名前を与えられ、唐の文化や学問を深く学びました。
唐での出世と活躍
唐において、その才覚と努力で昇進を重ね、唐の皇帝である玄宗に仕えることになりました。彼は唐の官僚制度において、数々の高位の官職を歴任しました。具体的には、司経校書、左拾遺、左補闕、儀王友、衛尉少卿、そして最終的には秘書監兼衛尉卿(従三品)という非常に高い地位にまで昇りつめました。従三品というのは、唐の官僚制度においてかなりの高位を示すものであり、これは仲麻呂がいかに唐の社会において重要な人物であったかを物語っています。
唐における仲麻呂の役割は、単なる留学生や文化交流の使者に留まらず、実際に唐の政治にも深く関与していたことが分かります。彼は、唐の内部で重要な役割を果たすだけでなく、日本と唐の架け橋としても活動していました。特に、当時の日本の朝廷と唐の皇帝の間での外交的な連携を助ける存在として、彼の存在は非常に大きかったと考えられます。
日本への帰国の試みと叶わぬ帰国
仲麻呂は唐で高い地位を築きながらも、日本への帰国を望んでいました。何度か帰国を試みたものの、様々な事情により叶いませんでした。特に最も有名な出来事としては、754年に日本への帰国を試みた際、彼を乗せた船が暴風雨に遭い、結果として日本に戻ることができませんでした。このため、最終的に唐でその生涯を終えることになります。
彼の異国での生涯は、多くの日本人にとって興味深く、また哀愁を感じさせるものとなっています。彼の日本への望郷の念は、唐において詠んだ歌にもしばしば現れており、その中でも「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」という歌が特に有名です。この歌は、故郷の春日の三笠山に昇る月を懐かしむ気持ちを詠んだもので、彼がどれだけ日本を恋しがっていたかをよく表しています。
文化的影響と後世への影響
唐において多大な影響力を持ちながらも、その文化や学問を日本に直接伝えることができなかった人物でもあります。しかし、彼が築いた日本と唐との交流の基盤は、後の遣唐使や留学生たちに引き継がれ、日本の文化発展に大きな影響を与えることとなりました。また、彼の詩や和歌は、異国での孤独や望郷の念を表現したものとして、後世の日本の文学や文化に影響を与えています。
阿倍仲麻呂の生涯は、国際的な視野で見た日本の歴史において非常に重要な位置を占めています。彼が日本に戻ることができなかったという運命は哀愁を帯びたものでありますが、その異国での活躍と、日本と唐の交流に果たした役割は、今もなお語り継がれています。彼の名は、日本と唐の架け橋として、そして異国で生涯を終えた一人の留学生として、歴史に刻まれています。
阿倍仲麻呂 和歌
あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも 『古今和歌集』
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
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