島木赤彦(しまきあかひこ)
1867年~1926年 長野県出身。本名:久保田俊彦。 柿乃村人など別号がある。大正期の代表的歌人。
長野師範卒業。1903年、歌誌「氷むろ(比牟呂)」を刊行。同年創刊の「馬酔木」にも短歌を出し、伊藤左千夫を師事するようになる。
1905年、太田水穂と『山上湖上』刊行。
1909年「比牟呂」を前年創刊の「アララギ」に合同させ、有力歌人として活躍するようになる。この年、東筑摩郡広丘村小学校長に就任。
1914年には上京して「アララギ」編集を担当。
歌作における「写生道」「鍛錬道」を主張し、 東洋的で素朴・荘重な歌風。さらに、自然と一体化した究極の文学的境地「寂愛相」を求めた。
島木赤彦 短歌
かひこが、皆死にしかば南瓜きる早きおそきをいさかひにけり『馬鈴薯の花』
草の日のいきれの中にわぎもこの丈けはかくろふわが腕のへに
すぐ其所に、粟程の畠、白樺の裂けたる幹、獣の女
夏草のいよよ深きにつつましき心かなしくきはまりにけり
まだ解かぬ荷のかたはらにあはれなる我が子をおきぬ毛布をきせて
向ひ家の南瓜の花は屋根をこえて延び来るかな黄の花を向けて
朝あけの桑の葉青みかがやけり組のなかに水を動かす 『切火』
いとどしく椿の花の明るみに面わ近づき来る童女はも
島芒い行き寂しむ身一人のうしろに大き海光り見ゆ
寝られねば水甕にゆきて飲みにけりあな冷たよと夜半にいひつる
嵐すぎて垣の破れもつくろはね隣の庭の百日紅あらは 『氷魚』
嵐のなか起きかへらむとする枝の重くぞ動く青毯の群れ
田舎の帽子かぶりて来し汝れをあはれに思ひおもかげに消えず
睾丸を切りおとしたる次ぐの日の暁どきに眼ざめ我が居り
つぎつぎに氷をやぶる沖つ波濁りをあげてひろがりてあり
昼のまの疲れをもちて手紙かく女中おつねの居睡りあはれ
夜寒くして尿に近し家人の枕またぎて下の室をとほる
いくばくもあらぬ松葉を掃きにけり凍りて久しわが庭の土『太虚集』
福寿草のかたき莟にこの夕息ふきかけてゐる子どもはや
みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ
萌えいでてややひろがれる蕗の葉に風ふきしきて日ねもす曇る
或る日わが庭のくるみに囀りし小雀来らず冴え返りつつ 『柿蔭集』
岩あひにたたへ静もる青淀のおもむろにして瀬に移るなり
をちこちの谷より出でて合ふ水の光寂しきみちのくに来し
寒鮒の肉を乏しみ箸をもて梳きつつ食らふ 楽しかりけり
霧のなかに電車止まりてやや長し耳に響かふ天竜川の音
草の家に柿をおくべき所なし縁に盛りあげて明るく思ほゆ
信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ
軒の氷柱障子に明かく影をして昼の飯食ふころとなりけり
山深く起き伏して思ふ口鬚の白くなるまで歌をよみにし
隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり
我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる
島木赤彦 歌集
『馬鈴薯の花』(東雲堂書店、1913年)
『切火』(アララギ発行所、1915年)
『氷魚』(岩波書店、1920年)
『太虚集』(古今書院、1924年)
『自選歌集十年』(改造社、1925年)
『柿蔭集』(岩波書店、1926年)・・・遺集 〈参考: ウィキペディア〉
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