斎藤 茂吉(さいとう もきち)
1882~1953年 山形県南村山郡堀田村字金瓶(現、上山市)生まれ。
近代日本を代表する文学者の一人で、医師(精神科医)。多くの短歌、歌論、歌人研究と共に膨大な数の散文を残し、同時代の文芸だけでなく、後世にも大きな影響を与えた。
生家の守谷家は、蚕種業を営み比較的に裕福であった。
1896年、高等小学校卒業後、14歳の時、東京浅草で開業医をしていた親戚の斎藤紀一の勧めで医学を修めるために上京、開成中学に編入学。
1901年、一高理科に入学。 正岡子規の『竹の里歌』を読んで感動、これが契機となって作歌を始める。
1905年、斎藤家に入籍、九月に東大医科に進学。後に医師(精神科医)になる。
1906年「馬酔木」を主宰していた伊藤左千夫に入門。伊藤左千夫は茂吉の歌才を高く評価し、 将来を嘱望した。
かぎろひの夕なぎ海に小舟入れ西方のひとはゆきにけるはも『初版赤光』
伽羅ぼくのこのみのごとく仄かなるはかなきものか pluma loci よ
なんばんの男いだけば血のこゑすその時のまの血のこゑかなし
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 『赤光』
浅草の仏つくりの前来れば少女まぼしく落日を見るも
あま霧し雪ふる見れば飯をくふ囚人のこころわれに湧きたり
天そそるやまのまほらに夕よどむ光を見つつあひ欺きつも
天なるや群がりめぐる高ぼしのいよいよ清し山高みかも
いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを
入日さすあかり障子は薔薇色にうすら匂ひて蝿一つ飛ぶ
上野なる動物園にかささぎは肉食ひゐたりくれなかの肉を
馬に乗りて陸軍将校きたるなり女難の相か然にあらじか
屋上の石は冷めたしみすずかる信濃のくにに我は来にけり
おのが身しいとほしきかなゆふぐれて眼鏡のほこり拭ふなりけり
おのが身をいとほしみつつ帰り来る夕細道に柿の花落つも
アララギ創刊
伊藤左千夫を中心に「アララギ」が創刊され、茂吉も編集も担当するようになり活発に活動。独自の感動を表現した短歌論を発表し始める。
1913年に出版した『赤光』は、歌壇以外にも広く認められた。
1914年、斎藤輝子と結婚。
1920年、「アララギ」誌上に「実相観入」の写生法を発表。
1920年、ドイツに三年間留学。
かがまりて見つつかなしもしみじみと水湧き居れば砂うごくかな
萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ
くれなゐの鶴のあたまに見入りつつ狂人守をかなしみにけり
ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ
氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり
蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし
このゆふベ脳病院の二階より墓地見れば花も見えにけるかな
こよひはや学問したき心起りたりしかすがにわれは床にねむりぬ
さにづらふ少女ごころに酸漿の籠らふほどの悲しみを見し
さ夜ふかく母を葬りの火を見ればただ赤くもぞ燃えにけるかも
死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにけるかな
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
しろがねの雪ふる山に人かよふ細ほそとして路見ゆるかな
「アララギ」中心者として
1926年、「アララギ」の編集責任者となる。
1927年、青山脳病院長就任。
昭和に入り、歌境はいちだんと進展し柿本人麿研究にも力を注ぐ。
1933年、家庭内のスキャンダルが公となり、これを契機として柿本人麻呂研究に打ち込み『柿本人麿』は、1940年に帝国学士院賞を受けた。
しんしんと雪ふりし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか
酸き湯に身はかなしくも浸りゐて空にかがやく光を見たり
諏訪のうみに遠白く立つ流波つばらつばらに見んと思へや
たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり
玉きはる命をさなく女童をいだき遊びき夜半のこほろぎ
月あかきもみぢの山に小猿ども天つ領巾など欲りしてをらん
とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり
どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも
汝兄よ汝兄たまごが鳴くといふゆゑに見に行きければ卵が鳴くも
長鳴くはかの犬族のなが鳴くは遠街にして火かもおこれる
なげかへばものみな暗しひんがしに出づる星さへあかからなくに
夏されば農園に来て心ぐし水すましをばつかまへにけり
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
晩 年
1945年、郷里に疎開。敗戦にあった悲痛の情を多く詠んだ、歌集『白き山」に収める。1947年に帰郷する。
1951年、文化勲章を授与される。
1953年、 70歳で死去。
はるさめは天の乳かも落葉松の玉芽あまねくふくらみにけり
春のかぜ吹きたるならむ目のもとの光のなかに塵うごく見ゆ
ひかりつつ天を流るる星あれど悲しきかもよわれに向はず
ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも
書よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり
鳳仙花城あとに散り散りたまる夕かたまけて忍び来にけり
星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
ほのかなる花の散りにし山のベを霞ながれて行きにけるかも
ほのかなる茗荷の花を目守る時わが思ふ子ははるかなるかも
ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし
ほのぼのと目を細くして抱かれし子は去りしより幾夜か経たる
自からをさげすみ果てし心すら此夜はあはれ和みてを居ぬ
アララギとは
短歌結社、またその機関誌。1908(明治41)年、正岡子規の写生説を受け継ぎ、伊藤左千夫らが創刊。その後、島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明らが編集にあたる。『万葉集』を旨とし、写実の道を深め歌壇の主流を占めた。1997(平成9)年まで、90年にわたって 歌壇のもっとも大きな勢力として、近代短歌に大きな足跡を残した。
1903年6月、伊藤左千夫によって創刊された根岸派の機関誌「馬酔木」がアララギの源流である。「馬酔木」が解散するとと もに、1908年1月、若い三井甲之に編集をまかせて新しく「アカネ」がスタートした。
「アカネ」には「馬酔木」以来の同人がそのまま参加したが、やがて甲之と左千夫との間の軋轢が生じ、 左千夫らは、蕨真一郎(蕨真)を編集兼発行人として「阿羅々木」を出すことにより、「アカネ」を脱退、分離した。
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