伊藤保 (いとうたもつ)
1913年(大正2年)、大分県に生まれた伊藤保は、昭和期を代表する歌人の一人であり、その生涯と作品は、人間の尊厳と芸術の力を今に伝えています。
二十歳の春、人生の転機となるハンセン病の診断を受けた伊藤は、熊本県の国立療養所菊池恵楓園に入園します。この時期から、彼の本格的な作歌活動が始まりました。病との闘いの中で見出した短歌という表現手段は、やがて彼の人生そのものとなっていきます。
1934年(昭和9年)、伊藤は短歌結社「アララギ」に入会します。ここで斎藤茂吉、土屋文明という二人の偉大な歌人に師事することとなり、その指導は彼の歌風形成に大きな影響を与えました。特に、アララギ派の特徴である写生的手法を基礎としながら、独自の精神性を帯びた表現を確立していきました。
同じ時期、菊池恵楓園では津田治子も療養生活を送っていました。二人は共に「アララギ」の門下生として、また療養所で生きる歌人として、互いに影響を与え合いながら創作活動を続けました。彼らの存在は、「療養歌人」という新たな歌の潮流を生み出すことになります。
伊藤の短歌の特徴は、療養所という限られた空間の中で、なお広がり続ける精神の自由を表現した点にあります。病床からの眺め、四季の移ろい、同じ境遇の人々との交流など、日常の一瞬一瞬を鋭い感性で捉え、そこに深い人生の真実を見出していきました。
特筆すべきは、伊藤の作品が決して病苦や孤独の嘆きに終始することなく、むしろ生命の輝きや人間の尊厳を力強く詠い上げている点です。それは、困難な状況の中でこそ見出される人間の精神の崇高さを体現するものでした。
菊池恵楓園での30年の歳月は、伊藤にとって創作の場であると同時に、人生そのものでした。療養所という閉ざされた空間の中で、彼は短歌を通じて精神の自由を獲得し、普遍的な人間の真実を追求し続けました。
1963年(昭和38年)、50歳での死去まで、伊藤は歌い続けました。その作品群は、病と向き合いながら、なお人間の尊厳を失わなかった一人の歌人の証として、現代に深い感動を与え続けています。
伊藤保 短歌
◎起き直り胸の湿布を替へゐれば花芽の櫟に頬白の鳴く
◎戦争に力かさざりしとは何を言ふ木の葉を繃帯に巻き堪へて来にしを
◎降り出でし雪にあかるき松原に声つつしみて吾を呼ぶきみ
◎わが庭の草にかかりて吹かれゐる鉋屑ながく生なましかり
◎吾子を堕ろしし妻のかなしき胎盤を埋めむときて極りて嘗む
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