日本文化に息づく『蟬』短歌と歴史物語!

蟬/蝉(せみ)と短歌の世界 — 自然と人生を映す声

蝉

1. 蟬短歌の魅力と詩情

遠山川透ける玻璃戸に突きあたり失速のみじかく啼きぬ/葛原妙子
母逝き四十九の昼すぎぬ呪といひて幹をはなるるつくつく法師/岡井隆

蟬(せみ)の声は夏の風物詩として身近ですが、短歌に詠まれる「郷(さと)」という言葉は、単なる場所以上に深い意味を持ちます。葛原妙子の作品では、遠山川がガラス戸に映り、その中で蝉が失速しながら短く鳴く一瞬の儚さが繊細に描かれています。郷という存在が終わりを告げるような静寂も感じられます。岡井隆の歌は、母の死後四十九日の法要に寄せて、「呪(のろい)」という言葉が経文の響きを帯び、感傷を超えた厳かな祈りとなっています。

 

きれぎれに夕輝の声、夜見の世の人を数えて夜まつ時間/佐佐木幸綱

夕暮れ時に聞こえる蝉の声は「カナカナ」と響き、ひぐらしと思われます。「夜見の世」は黄泉(よみ)の世界を重ね合わせた表現で、通夜や葬儀で集まる人々の中に死者も混じっているような不思議な気配を感じさせます。

 

あぶら蟬杉の木膚をいだくときそのたまゆらを目守らむとする/斎藤茂吉

よく知られる「あぶら蟬」は杉木肌に抱かれて揺れる魂(たまゆら)を感じさせます。その揺らぎや息づきを見守ろうとする作者自身の眼差しが込められています。

 

蝦夷蟬の鳴きそむるころひとり米つあらあらとせる木立の中に/斎藤茂吉
みんみん蟬あまた鋭く響ければあはれ夏へてつくつくほふし啼く/土屋文明

斎藤茂吉は「蝦夷蟬」の独特な赤褐色や朱色の目など特徴的な姿から孤独感や内面空間を浮かび上がらせています。土屋文明は夏末期に強烈な蝉時雨が響き渡り、季節移ろいへの哀愁(あわれ)を詠んでいます。

 

おびただしく寄せられてるて空蟬のぬけがらながら我を圧せ/斎藤史

空蝉とは抜け殻そのものですが、その数多さが圧倒的な存在感となって作者に迫ります。形あるものから抜け出た無数の相(すがた)が恐ろしくも印象的です。

 

啞蝉が砂にしびれて死ぬ夕べ告げ得ぬ愛にくちびる渇く/春日井建
夕ぐれののちなほうたふかなかなの青き潮騒なにを聞くべき/小池光

啞蝉(だぜみ)は啼かない雌蝉であり、それを愛や死に重ね合わせる比喩的表現です。小池光は夕暮れ時、青い潮騒音とカナカナ蝉声との共鳴から何か聴き取ろうとしている心情を描いています。

 

木がくれに一つ蟬鳴きこそは泉の水に近づかむとす/前登志夫

朝、新しい時間帯に銀色に澄んだ蝉声が響きわたり、それによって清冽な泉水へ近づこうとする清々しい感覚が伝わります。

 

さるすべり散りて小さき蟬の穴ほのかに翳り秋風となる/馬場あき子

百日紅(さるすべり)が散り、小さな蝉穴には薄暗い影が差し込み秋風へ変わってゆく季節感とともに、生への寂しさも滲んでいます。

 

うす硝子さへぎりて見し古支那の死者ふふみたる青玉の蟬 /葛原妙子

この歌は、古代中国で死者を地中に葬る際、蝉の形を彫った青い玉を一緒に埋める風習に着目しています。蝉の彫られた玉は、死後の再生や蘇りを象徴し、生まれ変わるまでの時間を示唆しています。薄い硝子越しにその青玉が見えたという情景は、死と再生の神秘的なつながりを繊細に表現していると言えるでしょう。

 

地を歩む足裏のみの確かさに遠世の蟬のこゑくだりくる/雨宮雅子

この歌では、歩く人の足裏だけが確かな現実として地面を感じています。一方で「遠世(えんせ)」とは過去の世や遠い時代を意味し、その世界から蝉の声が聞こえてくるようです。現在と過去が重なり合う中で、人は現実世界を歩みつつも、どこか別の時間や世界とつながっている感覚が詠まれています。

 

寒蜩ひぐらしもすでに鳴かずとあきらめてそれより後のゆふまぐれどき/斎藤茂吉

寒蜩は秋口に鳴く蝉ですが、この歌ではその鳴き声も既になくなったことを受け入れています。「それより後の夕暮れどき」は、時間が進み急速に夜闇が訪れる様子を示します。その暗がりの中で心は混沌とし、不安や悲しみなど複雑な感情が入り混じっています。茂吉自身の晩年期に感じた孤独や哀愁が内面から滲み出ている作品です。

 

コメント