少女・乙女・処女の短歌に込められた想い『12選』

少女

少女

~純粋さと憧れが交差する言葉の世界~

「少女」「乙女」「処女」という言葉は、日本の古典文学や和歌、特に短歌において、時代ごとの女性像や純粋さ、青春への憧れを象徴する特別な存在として詠まれてきました。『万葉集』から近現代の歌人まで、多くの作品で用いられてきました。これらの言葉は、単なる未婚女性や若さだけでなく、その時代ごとの理想や憧憬、さらには社会的背景までも映し出しています。

『万葉集』には「をとめ」という語が頻繁に登場します。表記は「処女」「未通女」「娘子」「嬉嬬」など多岐にわたり、主に未婚女性、あるいは若く清らかな女性を指す言葉として使われてきました。例えば、大伴家持による有名な一首、

春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(大伴家持)

この歌では、美しい桃の花が咲く春の日差しの中、一人立つ少女が絵画的に描かれています。「少女」はただ年若いというだけでなく、その場面そのものが清らかさや生命力、未来への期待感を象徴しています。

また、「かわのへつも、とくに未婚の女性をさす言葉として使われている」とあるように、『万葉集』では「かわ(川)のへつ(辺)も」など自然と結び付けて詠まれることも多く、純粋さや神聖さへの願いが込められていました。

 

『万葉集』成立期(7~8世紀)

『万葉集』は奈良時代(8世紀)までのおよそ130年間、日本各地で詠まれた和歌約4,500首余りから成ります。この時期、日本列島にはまだ中央集権国家体制が整いつつあり、貴族階級中心ながらも地方豪族や庶民にも文化活動が広まり始めていました。

当時、「おとめ(乙女)」という言葉は単なる未婚女性だけでなく、神事や祭祀にも関係する神聖さ・清浄さとも結び付けられていました。「常娘子(とこおとめ)」という表現には、“変わることなく清純”という意味合いも含まれていたことが研究から分かっています(国文学研究資料館『万葉集注釈』より)。

また、この頃は男女とも13~15歳前後で元服・裳着(成人儀礼)を迎える風習でした。「乙女」と呼ばれる期間はごく短かったものの、その分だけ特別視され、多くの和歌でも理想化された存在として扱われました。「春」「花」「川」など自然景観との結び付きも強調され、その透明感あふれる世界観はいまなお多くの読者・研究者を惹きつけています。

平安~鎌倉時代:宮廷文化から武家社会へ

平安時代になると、『源氏物語』など物語文学でも“乙女”像は重要な役割となります。宮廷社会では男女間のお付き合いや恋愛模様が和歌によって伝えられ、それぞれ独自性ある“おとめ”観が発展しました。藤原定家など名だたる和歌作者も、多様なおとめ像を書き残しています。

鎌倉時代以降、武家社会となって価値観も変化します。しかし“清純”“初々しさ”への憧れそのものは失われず、新古今和歌集などでも引き継がれてゆきました。

近世~近現代:女性主体による表現へ

明治維新以降、西洋文化流入によって日本社会全体が大きく変動します。教育制度改革によって女子教育機会も拡大され、多数の女性文学者・芸術家が誕生しました。与謝野晶子・山川登美子・柳原白蓮など、多彩な才能ある女性たちによって、“おんな”自身から見た“おんな=乙女”像、“自己発見”“自立”というテーマへ発展してゆきます。(国立国会図書館デジタルコレクション『日本近現代文学大系』参照)

20世紀中盤以降になると、“処女”概念そのものにも批判的視点や再評価、新しい表現手法など多様化したアプローチが加わります。富小路禎子や寺山修司など戦後世代では、“個”として生きること、自分自身との向き合い方、生身ならでは苦悩や希望など、新しい“おとめ”像・“しょうじょ”像へ昇華されています。

 

少女・乙女・処女 短歌

髪ながき少女とうまれしろ百合にぬかは伏せつつ君をこそ思へ 山川登美子

海恋ししほの遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家 与謝野晶子

少女言ふこの人なりき酒甕さかがめに凭りて眠るを常なりしひと 吉井勇

さにづらふ少女ごころに酸漿ほほづきこもらふほどの悲しみを見し 斎藤茂吉

脚ながきをとめのむれの一列を見れども飽かず老いつつ吾は 斎藤茂吉

処女にて身に深く持つ浄きらん秋の日吾の心熱くす 富小路禎子

やはらかき軀幹をせむるいくすぢの紐ありてこの晴着のをとめ 上田三四二

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司

白雲白壁白い少女を許すとて紅の雲わきたてる見ゆ 佐佐木幸綱

ひきちぎる時間ひとくれ 貧血の紅梅少女診おとめみむとおもいて 岡井隆

あかときに輝く月のくれないを古代おとめのごとく仰げり 阿木津英

ひるがほいろの胸もつ少女おづおづと心とふおそろしきもの見せに来る 米川千嘉子

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