大伴書持の経歴・人物像を徹底解説【奈良時代歌人】【1選】

芍薬

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大伴書持の経歴

奈良時代――それは日本文学と歴史が大きく新しい地平に踏み出した、まさに夜明けの時代でした。この時代、数多くの優れた貴族や文化人が活躍しましたが、なかでも芸術と政治、家系の重みのはざまで複雑な運命をたどった一人が、大伴書持(おおとものふみもち)です。

大伴書持は、生誕年が明らかではありませんが、746年(天平18年)にその生涯を閉じています。その名が歴史に残るのは、彼が単なる貴族であっただけでなく、傑出した歌人でもあったからです。大伴氏は古代から続く有力氏族として名高く、書持はその一族の中でも特に文学・芸能に造詣が深い家系の出身です。

父は、万葉集の中でも重要な位置を占め、当時の文化的サロンを築いた大伴旅人(たびと)。そして、兄には昭和期にも繰り返し語られてきた稀代の歌人、大伴家持(やかもち)がいます。書持は、まさに歌の家に生まれ、貴族であると同時に文芸にその人生を刻んだ一人でした。彼の姓は「宿禰(すくね)」であり、これは古代豪族の栄誉ある称号の一つです。この家系と時代背景が、書持の人柄や置かれた立場に大きな影響を与えました。

さて、書持の生涯に迫るためには、その家族や奈良時代の社会的背景にも触れなくてはいけません。平城京の築かれた奈良時代は、政治と文化が都に一極集中し、政争のなかで多くの人が栄枯盛衰の物語を刻んでゆきました。大伴氏もまた、藤原氏と並び国家運営の中核を担っていた名家であり、その末裔たちは官職を得て、中央政界で頭角を現すことが期待されていました。

大伴書持も、その家筋に従い、朝廷に仕え、派遣先での文化外交の任にもつきましたが、彼の生涯の詳細な足跡は、遺された文学や公的記録より推察するしかありません。しかし、歌が活字として残されているという事実、それ自体が、彼の人としての深深い魅力と、彼個人の芸術的感性、家族への思い、人間関係の複雑さや時代の心模様の証といえるでしょう。

【貴族、官人としての顔──律令国家運営と大伴氏】

書持は名家の子弟として奈良の都ですぐれた教育を受け、若くして役人として朝廷で働くようになりました。平城京の官僚社会は非常に競争が厳しく、氏族の名誉を背負いながら才能を磨いていかなければなりません。大伴家では特に文学や芸術を重んじる家風があり、書持も和歌を日課とし、それが人生を支える核であったと言われています。

兄の家持とともに、家族や交友の歌をたびたび詠み交わした記録が『万葉集』に残されており、当時の歌人どうしの親密な交流や、心の機微、日常の出来事への繊細なまなざしも感じ取ることができます。

また、奈良時代は官僚や貴族にとって左遷、昇進、栄達、挫折が日常茶飯事の世界です。大伴家も盛衰の運命に大きく影響されました。書持自身は兄・家持ほど高い官位には就きませんでしたが、家族の支えとなり、自身も歌壇で一目置かれる存在となっていきます。


【家族と生誕──大伴一族の時代背景】

大伴書持の誕生は、日本が大きな転換点を迎えていた8世紀・奈良時代です。彼の父・大伴旅人は、筑紫歌壇の主宰者として、和歌を通して中央と地方の文化交流、親族や友人との交流を何より大切にしていました。書持が生まれた頃、旅人は地方長官として九州・筑紫(現福岡県太宰府)に赴任しており、この時、家族一同が太宰府の土地で約2年間生活したことが知られています。兄である家持も、幼少期の多感な時期をこの地で過ごしています。

書持がどこでどのような幼少期を送ったか、記録は僅かしかありませんが、父旅人や兄家持の影響のもと、家族と和歌を通じて強い絆を育んでいたことは想像に難くありません。父の旅人は後に都に帰ると、大和国香具山の麓に移り住み、ここで歌を詠んで名声を広げました。

【文学と家族の絆──書持と『万葉集』】

書持の名が現代に遺されている最大の理由は、やはり『万葉集』への参加です。『万葉集』は現存する日本最古の和歌集であり、約4500首もの歌が収められています。大伴一族の歌はここでも多くを占めています。

書持本人の歌が数首収められているのは決して偶然ではなく、当時すでに“和歌を詠み、心を開く”ことが貴族の教養として不可欠だったことを示します。兄家持が最終的な編纂責任者である『万葉集』に、書持の歌が選ばれた意味は大きく、“書持ならでは”の優しい視点、日常への愛情、家族や友がらへの共感力――それらが人一倍優れていたことがうかがえます。

【大伴書持の人柄と人生観】

書持の詠んだ歌は、兄や父と比べて目立つ存在ではなかったものの、身近な出来事や周囲の人々への感情を率直に、しかも温かく表現している点で評価が高いです。ときには都や家族を思う郷愁、ある時は旅先で出会った風景への鋭い反応、あるいは友との別れの寂しさ…。書持の歌には大仰な表現や誇張は少なく、素直で静かな温もりが感じられます。

また、大伴家の中でも“少し控えめで誠実”、真面目に役割を果たす人物だったと考えられています。大伴一族というプライドや責任感を持ちながらも、押し付けや野心むき出しではなく、心の柔らかさを大切にした歌人だったのではないでしょうか。

【時代との出会いと、残したもの】

奈良時代の終焉が近づき、政治的にも社会的にも激動のなかで、書持は746年に生涯を閉じます。その最期の瞬間まで、家族や仲間、そして日本の和歌文化に貢献し続けました。書持の生涯は、豪族に生まれながらも歌という芸術を通して穏やかで実直な人生を歩み、時代を静かに彩った優しい人物像として今も語り継がれています。

そして何より注目すべきは、万葉の壮大な世界に彼の歌声が響き続けていることです。奈良から平安へと時代が変わってもなお、大伴書持のきらりと光る歌は、現代の私たちにも日々のなかの叙情や人間らしい心の動きを伝えてくれるのです。

大伴書持 和歌

遊ぶうちの楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひ無みかも  『万葉集』

 

 

【参考文献】

  • 『万葉集』岩波文庫
  • コトバンク「大伴書持」 
  • 日本大百科全書(ニッポニカ)
  • 『新版 万葉集事典』 講談社
  • 落合博志監修『ビジュアル万葉集』小学館

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