北海道が生んだ女流歌人【大塚陽子】の軌跡と代表短歌『2選』

酔芙蓉

酔芙蓉

大塚陽子(おおつかようこ)

大塚陽子(おおつかようこ 1930年7月12日 – 2007年8月18日)は、北海道を代表する女流歌人のひとりであり、斬新かつ繊細な感性と、愛や生への深い洞察を短歌に託した人物です。誕生は樺太庁敷香郡敷香町(現・ロシア サハリン州)で、戦後間もなく北海道に移住。1951年、療養中にたまたま俳句会に参加したことをきっかけに短歌の道へと転向します。これは、俳句の指導者から詩情の傾向が短歌向きだと指摘されたこと、当時交際していた恋人も短歌会「みずうみ短歌会」に関わっていたことが要因でした。「みずうみ短歌会」では小田観螢や野原水嶺から指導を受け、やがて野原水嶺に強い憧れと師弟の結びつきを持つようになります。

その後、大塚は音楽や自然、愛に対する複雑な感情を、淡い情念の光でふちどるような作品で存在感を発揮。1952年には「新墾」「潮音」に入会、その後「辛夷」の編集人も務めました。特に注目されたのは、1954年「短歌研究新人賞五十首詠」での入選。この時、中城ふみ子という情熱的な同年代の歌人とのライバル関係が大きな話題となりました。彼女たちはともに北海道出身、同じ歌誌に所属し、同時期にデビューしたことから生涯比較される存在でしたが、中城を太陽、陰に咲く月と評された大塚は、恋愛と憧憬、ひっそりとした情感やほの暗い孤独を大切にする作風で評価されます。

教員としても活躍しながら、作品発表と自らの生活の両立を続けました。北海道の特殊な歴史的背景や気候風土を生きた身体感覚と重ね合わせ、樺太引き揚げという忘れがたい体験の痕跡も随所に読み取れます。

37歳で第一歌集『遠花火』を上梓し、第7回現代短歌女流賞を受賞。このデビューは歌壇では決して早い方ではありませんでしたが、歌集中で光る普遍的な女性心理や、成熟した言葉を静かに研ぎ澄まして詠む姿は多くの読者に感動を与えました。さらに1987年に第二歌集『酔芙蓉』を刊行し、北海道新聞短歌賞も受賞します。以後も作品の質の高さが認められ続け、「千の種子」50首で第3回北海道歌人会賞に輝くなど、晩年まで創作意欲を保ち続けました。

影響を受けた歌人として野原水嶺・中城ふみ子らの名が挙がり、「恋する人生」「人を強く愛し続けた生涯」こそが大塚陽子の歌業の核だと評されています。彼女の文学的立ち位置は、「太陽のような表現者・中城ふみ子」に対し、「内省の月」のような穏やかで奥行きある女性像としてしばしば紹介されます。

また、現代短歌研究・発表活動の推進にも力を注ぎ、短歌会の指導や誌面での役割、後進の育成にも携わりました。北海道・樺太という土地の境目や歴史を生きたNostalgiaと、時代の痛みを共鳴させる歌が彼女の世界観を特徴づけています。

歌業における最大のテーマは、憧れ・静かな情念・心の漂泊と帰属意識、女性としての生き難さ、さらには「誰かに愛されたい・照らされたい」と願う人間の普遍的な心のひだです。没後も多くの歌人や研究者に高く評価され続けており、日本歌壇史における独自の位置を確立しました。

大塚陽子 短歌

温かくもの煮て母が待てるなど思ふことなく抱かれてありき  『遠花火』

花のごとく黙してありぬ花のごとくかをりてありぬ命の奥に

 

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