石川啄木(いしかわ たくぼく)
【生い立ちと青春時代】
岩手県日戸村(現在の盛岡市)の常光寺に、住職の長男として生を受けた石川一(はじめ)は、幼少期を渋民村の宝徳寺で過ごしました。学業優秀な少年は、渋民小学校で首席を争うほどの成績を収め、その後、盛岡市内の高等小学校を経て、盛岡中学校への入学を果たします。
この時期、文学との運命的な出会いが訪れます。先輩から紹介された文芸誌「明星」との出会いが、若き啄木の心に火を灯しました。与謝野晶子の『みだれ髪』に心酔し、文学の道を志す決意を固めていきます。
【青春の苦悩と挫折】
しかし、文学への没頭と後に妻となる節子との恋愛は、学業との両立を困難にしていきます。成績は振るわず、さらに試験での不正行為が重なり、ついに盛岡中学校を退学することになります。1902年、啄木16歳の秋のことでした。
【文学への船出】
その年、「明星」に最初の短歌が掲載され、文学者としての第一歩を踏み出します。与謝野鉄幹に才能を認められ、「啄木」の号で長詩を発表。詩集『あこがれ』を上梓し、天才詩人としての評価を得始めます。
【生活苦との戦い】
しかし、父の住職罷免や節子との結婚により、一家の生計を担うことになった啄木は、渋民小学校の代用教員として働きながら、創作活動を続けます。1907年には活路を求めて北海道へ渡り、函館、札幌、小樽、釧路と転々としますが、安定した職を得ることはできませんでした。
【短歌革新と晩年】
1910年、東京朝日新聞社の校正係として働きながら、日常生活の些細な瞬間を切り取った短歌を「東京毎日新聞」や「東京朝日新聞」に発表し始めます。同年9月には「朝日歌壇」の選者となり、歌集『一握の砂』を出版。三行書きという斬新な形式と、生活に密着した歌風で歌壇に新風を巻き起こしました。
【啄木の遺産】
1912年4月13日、わずか26歳という若さで肺結核により永眠した啄木。しかし、その短い生涯で残した作品群は、近代短歌の革新者として、また人間の真実を追求した詩人として、日本文学史に大きな足跡を残しています。
石川啄木 短歌①
青空に消えゆく煙/さびしくも消えゆく煙 /われに似るしか 『一握の砂』
秋立つは水にかも似る/洗はれて/思ひことごと新しくなる
いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて堀りてありしに
いつも逢ふ電車の中の小男の/稜ある眼/このごろ気になる
いつも来る/この酒肆のかなしさよ/ゆふ日赤赤と酒に射し入る
いと暗き/穴に心を吸はれゆくごとく思ひて/つかれて眠る
いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/ 握れば指のあひだより落つ
おそ秋の空気を/三尺 四方ばかり/吸ひてわが児の死にゆきしかな
親と子と/はなればなれの心もて静かに対ふ/気まづきや何ぞ
かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川
汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも
教室の窓より遁げて/ただ一人/かの城址に寝に行きしかな
銀行の窓の下なる/舗石の霜にこぼれし/ 青インクかな
かうしては居られずと思ひ/立ちにしが/ 戸外に馬の嘶きしまで
こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後のこの疲れ
不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心
石川啄木 短歌②
こそこその話がやがて高くなり/ピストル鳴りて/人生終る
子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな
さいはての駅に下り立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき
しつとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地おぼゆる
死ぬばかり我が酔ふをまちて/いろいろの /かなしきことを囁きし人
吸ふごとに/鼻がぴたりと凍りつく /寒き空気を吸ひたくなりぬ
底知れぬ謎に対ひてあるごとし/死児のひたひに/またも手をやる
大海にむかひて一人/七八日/泣きなむとすと家を出でにき
大という字を百あまり/砂に書き/死ぬことをやめて帰り来れり
誰そ我に/ピストルにても撃てよかし/伊藤のごとく死にて見せなむ
たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず
つくづくと手をながめつつ/おもひ出でぬ /キスが上手の女なりしが
手套を脱ぐ手ふと休む/何やらむ/こころかすめし思ひ出のあり
東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて /蟹とたはむる
遠くより/笛ながながとひびかせて/汽車今とある森林に入る
何すれば/此処に我ありや/時にかく打驚きて室を眺むる
函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/ 矢ぐるまの花
はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ちっと手を見る
春の雪/銀座の裏の三階の煉瓦造に/やはらかに降る
馬鈴薯のうす紫の花に降る/雨を思へり/都の雨に
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