石川啄木(いしかわたくぼく)
1886~1912年 岩手県出身。 歌人。 本名、一(はじめ)。
岩手県日戸村常光寺の長男として生まれ、少年時代を送る。 本名は一。幼少時は渋民村宝徳寺にて過ごす。 渋民小学校では、卒業時首席を争うほどであった。 高等小学校は盛岡市に出て修学し、優秀な成績で盛岡中学校に入学する。先輩の影響で文学に目覚め、「明星」によって、 短歌と出会う。「明星」を愛読し、『みだれ髪』に心酔する。
後の妻、節子との恋愛や文学への没頭が原因で、成績不振となる。4年の期末試験で不正をして処分され、5年の1学期末試験でも不正行為が発覚して落第が決定的となり、9月に退学。
盛岡中学在学中の1902年、「明星」に はじめて短歌一首が掲載された。
1902年の秋、文学で立つべく上京するが、うまくいかず帰郷。明星派の歌は、若年層に政治的行為の代用として受け取られた。詩・小 説・評論にも筆を染めた啄木にとって、短歌は第一義の表現ジャンルではなかったが、短歌形式を酷使することでさまざまな実験を試行することになった。
その折に与謝野鉄幹から才能などを認められて、啄木の号で長詩を「明星」に発表する。詩集『あこがれ』を出版、天才詩人の名を得る。
そのころ、父(一禎)が 住職罷免になり、節子とも結婚して一家の生計が啄木の肩にかかるようになる。渋民小学校の代用教員の職を得て、小説『雲は天才である』などを執筆する。
1907年、転機を求めるべく北海道に渡り、職を求めて函館、札幌、小樽、釧路と転々とする。文才を認められて多彩な生活を送ったが、彼の自負心を満たす職にはつけなかった。
1910年、中央文壇で成功するチャンスをつかむため上京、多くの小説を発表するが、認められなかった。東京朝日新聞社に校正係として就職した啄木は、1910年の3月頃から、日常生活のなにげない瞬間をとらえた歌を、「東京毎日新聞」や「東京朝日新聞」に発表し始め、9月には、新設された「朝日歌壇」の選者になった。
1910年に出版した『一握の砂』では、これらの短歌が三行書きに改めて収められ、独自な歌風とともに歌壇に新風を吹き込んだ。
1912年、肺結核のため26歳で死去。
石川啄木 短歌①
青空に消えゆく煙/さびしくも消えゆく煙 /われに似るしか 『一握の砂』
秋立つは水にかも似る/洗はれて/思ひことごと新しくなる
いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて堀りてありしに
いつも逢ふ電車の中の小男の/稜ある眼/このごろ気になる
いつも来る/この酒肆のかなしさよ/ゆふ日赤赤と酒に射し入る
いと暗き/穴に心を吸はれゆくごとく思ひて/つかれて眠る
いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/ 握れば指のあひだより落つ
おそ秋の空気を/三尺 四方ばかり/吸ひてわが児の死にゆきしかな
親と子と/はなればなれの心もて静かに対ふ/気まづきや何ぞ
かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川
汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも
教室の窓より遁げて/ただ一人/かの城址に寝に行きしかな
銀行の窓の下なる/舗石の霜にこぼれし/ 青インクかな
かうしては居られずと思ひ/立ちにしが/ 戸外に馬の嘶きしまで
こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後のこの疲れ
不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心
石川啄木 短歌②
こそこその話がやがて高くなり/ピストル鳴りて/人生終る
子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな
さいはての駅に下り立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき
しつとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地おぼゆる
死ぬばかり我が酔ふをまちて/いろいろの /かなしきことを囁きし人
吸ふごとに/鼻がぴたりと凍りつく /寒き空気を吸ひたくなりぬ
底知れぬ謎に対ひてあるごとし/死児のひたひに/またも手をやる
大海にむかひて一人/七八日/泣きなむとすと家を出でにき
大という字を百あまり/砂に書き/死ぬことをやめて帰り来れり
誰そ我に/ピストルにても撃てよかし/伊藤のごとく死にて見せなむ
たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず
つくづくと手をながめつつ/おもひ出でぬ /キスが上手の女なりしが
手套を脱ぐ手ふと休む/何やらむ/こころかすめし思ひ出のあり
東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて /蟹とたはむる
遠くより/笛ながながとひびかせて/汽車今とある森林に入る
何すれば/此処に我ありや/時にかく打驚きて室を眺むる
函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/ 矢ぐるまの花
はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ちっと手を見る
春の雪/銀座の裏の三階の煉瓦造に/やはらかに降る
馬鈴薯のうす紫の花に降る/雨を思へり/都の雨に
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