正岡 子規 (まさおか しき)
1867年~1902年 愛媛県松山生まれ。歌人、俳人。国語学研究家。本名、常規。
祖父大原観山に漢学を学び松山中学に進む。「五友雑誌」を出し文学に親しみ自由民権の風潮の中で演説にも参加。1884年、大学予備門入学。このとき詩歌や俳句を始める。1888年、第一高等学校本科に入学。夏日漱石と出会ったのもこの時期。1890年、東大国文科に入学。翌年「俳句分類」 に着手、俳句の研究を進める。1892年6月から『獺祭書屋俳話』を新聞「日本」に連載。
1892年12月、日本新聞社に入社。この年以降、句作が激増する。1894年、上根岸の「子規庵」に居を移す。翌年、日清戦争に記者として従軍、その帰途喀血し、以後長い病床生活に入る。
1898年、「ホトトギス」の編集発行が東京に移る。この年の2月 『歌よみに与ふる書』を「日本」紙上に発表。『万葉集』や源実朝の『金槐集』 を絶賛し、『古今和歌集』を俗調と否定した。門下の伊藤左千夫や長塚節らが根岸短歌会を結成。「日本」に作品を発表する。
1900年、大喀血し、脊椎カリエスに苦しみながら、俳句、短歌など、数多くの作品を残す。1902年、絶筆三句を残し、34歳で死去。
正岡 子規 歌集
1986年 子規歌集 文庫 (岩波文庫) 土屋 文明 編集
正岡 子規 短歌
朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れど飽かぬかも 『竹の里歌』
足たゝば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
敦盛の墓弔へば花もなし春風春雨播州に入る
雨そゝぐ桜の陰のにはたづみよどむ花あり流るゝ花あり
いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ
いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす
色厚く絵の具塗りたる油画の空気ある画をわれはよろこぶ
歌よみておくれと君がいひし故に歌よみておくる歌よみてかへせ
かへらじとかけてぞちかふ梓弓矢立たばさみ首途すわれは
鏡なすガラス張窓影透きて上野の森に雪つもる見ゆ
柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき
瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ
金州に旅寐し居れば日の本の春の夜に似る海棠の月
くれなゐの梅ちるなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
試みに君の御歌を吟ずれば堪へずや鬼の泣く声聞ゆ
たひらかに緑しきたる海の上に桜花咲く八 つの島山
千はやぶる神の木立に月漏りて木の影動くきざはしの上に
茶博士をいやしき人と牛飼をたふとき業と知る時花咲く
庭中の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず
人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは
藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくベかりけり
枕べに友なき時は鉢植の梅に向ひてひとり伏し居り
真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり
昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く
ものゝふの屍をさむる人もなし菫花さく春の山道
吉原の太鼓聞えて更くる夜にひとり俳句を分類すわれは
四年寐て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり
世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも
世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿ぞわれは
我庵の硯の箱に忘れありし眼鏡取りに来歌よみがてら
我心いぶせき時はさ庭べの黄菊白菊我をなぐさむ
若葉さす市の植木の下陰に金魚あきなふ夏は来にけり
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