森 鴎外 (もり おうがい)
1862年~1922年 島根県出身。小説家。本名は林太郎。
石見国鹿足郡津和野(島根県津和野町)に生まれる。父は、津和野藩4万3千石の亀井家の典医。10歳で上京。 現在の東京大学医学部を卒業後は陸軍軍医となる。1884(明7)年~1888年までをドイツ留学。後に軍医総監、医務局長となる。
夏目漱石と並ぶ明治の二大文豪として、文業はあらゆる分野にわたり、業績の大きさは「テェベス百門の大都」に例えられている。
日露戦争従軍中、歌に親しみ、戦後開いた観潮楼歌会は交流をうながす大きなきっかけとなった。短歌(鴎外は「短詩」と言った)は伝統詩と西欧詩の発想をとり入れることで新しい方向を示した。
斎藤茂吉は鷗外短歌の特色を「思想的抒情詩」と言った。
森 鴎外 歌集
1907年 我百首
1907年 うた日記(春陽堂)
1915年 沙羅の木(阿蘭陀書房)
森 鴎外 短歌
青空の もとに露けき 黍畑や あさひ浴み立つ 黄牛ひとつ 『うた日記』
大車 こぐるまむるる 糧倉の かどのゆふべに 霙ふるなり
黄なる子の 白き懲らすを 見つつ笑ふ 天の口より 光ながれぬ
さらばさらば 宇品しま山 なれをまた 相見んときは いつにかあるべき
つはものの 武勇なきにはあらねども 真鉄なす ベとんに投ぐる 人の肉
夢のうちの/奢の花と/ひらきぬる/だりにの市は/わがあそびどころ
彼人はわが目のうちに身を投げて死に給ひけむ来まさずなりぬ 『沙羅の木』
君に問ふその唇の紅はわが眉間なる皺を熨す火か
軽忽のわざをき人よ己がために我が書かざりし役を勤むる
勲章は時々の恐怖に代へたると日々の消化に代へたるとあり
処女はげにきよらなるものまだ售れぬ荒物店の箒のごとく
爪を嵌む。「何の曲をば弾き給ふ。」「あらず汝が目を引き掻かむとす。」
何一つよくは見ざりき生を踏むわが足あま健になれば
勅封の笋の皮切りほどく剪刀の音の寒きあかつき 『鷗外全集』
戸あくれば朝日さすなり一とせを素絹の下に寝つる器に
奈良山の常磐木はよし秋の風木の間木の間を縫ひて吹くなり
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