梅と歌の歴史
ウメは、中国原産のバラ科、サクラ属の落葉高木で、ひらがなでは「むめ」と表記されていました。朝鮮半島を経由して日本に渡ってきました。
現在のウメには観賞の花を咲かせる「花ウメ」と薬や食品加工用に実をつける「実ウメ」に分けられ園芸種は300を超えます。
奈良時代の『万葉集』では100首を超える歌が詠まれ、桜以上に人々に愛されました。『万葉集』の歌では萩についで多く、桜の約3倍にのぼります。平安時代、国風文化が隆盛になるにつれ、花といえば桜をさすようになっていきます。
しかし、漢詩や和歌の題としても、梅は早春を代表するもので、「探梅」の行事も行なわれました。
奈良時代は白梅好みが多かったですが、平安時代には紅梅の人気が高まり、なつかしい人や過去への思いをかきたて、恋の情緒を濃く漂わせるものとしてうたわれました。
梅の歌
わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 【大伴旅人 万葉集】
730(天平2)年正月、大宰帥大伴旅人が自邸で観梅の宴を催したときの歌32首が、万葉集おさめられています。当時の梅、特に白梅への愛好や奈良朝貴族文化と梅の関わりの深さをよく物語っています。
ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 【紀貫之】
春の夜の闇はあやなし梅花色こそ見えね香やはかくるゝ 【凡河内躬恒】
君ならで誰にか見せむ梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る 【紀友則 古今和歌集】
奈良時代の白梅好みに対し、平安時代には紅梅の人気が高まり、なつかしい人や過去への思いをかきたて、恋の情緒を濃く漂わせるものとして、うたわれることが多くなりました。
東風吹かばにほひおこせよ梅花主なしとて春を忘るな 【菅原道真】
大宰府に左遷される菅原道真が自邸の梅が、後に死んだ主人を慕って筑紫まで飛んでいったという「飛梅」の伝説はあまりにも有名です。
夕庭は一樹の海の寂かなる光のもとにわが一人ある 佐々木信綱
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