扇畑忠雄 – 学と歌の道を極めた東北の歌聖
扇畑忠雄(おうぎはた・ただお)は、明治44年(1911年)2月15日、旧満州(現在の中国東北部)の旅順に生まれ、平成17年(2005年)7月16日に94歳でその生涯を閉じるまで、日本の短歌界と国文学研究の両分野において多大な足跡を残した人物です。東北大学名誉教授として学究の道を歩みながら、アララギ派の歌人として70年以上にわたり創作活動を続け、東北の歌壇をリードし続けました。
扇畑の父・孫一は旅順民政部で農林技師として勤務していましたが、その急逝により8歳の時に広島県の祖父母のもとに移住することになります。12歳で広島市に移った扇畑は、旧制広島一中、旧制広島高校と進学していきます。広島高校時代には北島葭江教授が指導する広高短歌会に所属し、短歌の道へと進む基盤を築きました。
広高在学中の19歳の時、昭和5年(1930年)に短歌結社「アララギ」に入会し、アララギ派の歌人としての道を歩み始めます。斎藤茂吉、土屋文明、中村憲吉といった当時の代表的な歌人に師事し、写生を重視するアララギの伝統の中で独自の歌風を形成していきました。
大学進学では京都帝国大学文学部国文学科を選び、研究者としての素養も身につけていきます。卒業後は教育者の道を歩み、旧制呉二中や旧制京都一女の教員を務めた後、昭和17年(1942年)、31歳の時に旧制第二高等学校の教授として仙台に赴任します。この仙台への移住が、扇畑のその後の人生を決定づけることになりました。
戦後の昭和21年(1946年)には、「東北アララギ会」を結成し、歌誌「群山」(むらやま)を創刊します。この歌誌は、扇畑の死後も含め、昭和21年から平成19年1月までの62年間にわたって発行され、通巻717号という膨大な実績を残しました。「群山」を通じて扇畑は多くの後進を育て、東北の歌壇の活性化に大きく貢献しました。
扇畑は昭和23年(1948年)に現在の扇畑利枝と再婚します。利枝もまた著名な女流歌人となり、夫妻で東北の短歌界をリードする存在となりました。
戦後の学制改革により東北大学が設立されると、扇畑は東北大学教授として国文学、特に万葉集の研究に打ち込みます。教授としてだけでなく教養部長も務め、学問の道においても重要な地位を占めました。万葉集研究では、実証的な研究方法と独自の視点で多くの論文を発表し、万葉学の発展に寄与しました。
扇畑の歌風は、アララギの伝統である写生を基盤としながらも、深い学識に裏打ちされた独自の美意識を持つものでした。特に旅順で生まれた自身のルーツへの望郷の念や、東北の自然と風土への愛着が多くの秀歌を生み出しました。彼は「望郷の歌はふるさと回帰願望の求心力と遠心力の相克から生れている」と自ら分析しており、故郷を持たない者としての複雑な心情が彼の歌の深みを形成したとも言えるでしょう。
東北大学を退官後も旺盛な創作活動と研究を続け、昭和58年(1983年)には勲三等旭日中綬章を受章します。平成5年(1993年)には歌集『冬の海その他』により第29回短歌研究賞を受賞、平成8年(1996年)には『扇畑忠雄著作集』(全8巻)により第19回現代短歌大賞を受賞するなど、その功績は広く認められました。平成14年(2002年)には歌会始の儀で召人に招かれ、天皇家の歌会に参加する栄誉も得ています。
晩年は日本現代詩歌文学館の第2代館長を務めるなど、日本の詩歌文化の保存と発展にも尽力しました。94歳で生涯を閉じるまで現役の歌人として活動を続け、その生涯を通じて「継続する力」を体現した人物でした。
扇畑忠雄の最大の特徴は、国文学者としての学問的厳密さと、歌人としての感性を高い次元で融合させたことにあります。彼は「真の写実(りありすむ)とは「在るもの」を基として「在らざるもの」を層沿いすることである」と述べており、単なる現実の模写ではない、深みのある写実を追求しました。また、学問と芸術の両立という困難な道を選び、どちらも高い水準で成し遂げた稀有な存在としても評価されています。
扇畑の作品には、東北の厳しい自然を詠んだものや、旅順への望郷の念を詠んだもの、さらには戦争体験や平和への願いを込めたものまで、幅広いテーマが見られます。長い生涯の中で時代の変化を見つめ続け、それを短歌という形式に昇華させる力は、彼の最大の才能だったと言えるでしょう。
扇畑忠雄は東北の地に深く根を下ろしながらも、その視野は常に広く世界へと開かれていました。「ながらへてつひにみちのく人たらむ 流民のごとき生の道程」という歌に表れているように、彼は自らを「流民」と位置づけながらも、東北の風土に魂の安らぎを見出し、そこで生涯を全うしました。
彼の95年の生涯は、激動の20世紀を生き抜いた知識人の軌跡であると同時に、「継続する力」の尊さを示す模範でもありました。扇畑の死後も、彼の薫陶を受けた多くの歌人たちによって、その精神は東北の地に脈々と受け継がれています。
扇畑忠雄 短歌
死刑宣告受けしより歌作れりと幾首かに示す尚のこる生
ただ綴る君らがノートたどたどと言葉つたなきまごころの歌
癒えたまひ生命しづけき君ゆゑに暗きに見ゆる沼も身に沁む
住む国を隣りて常にたのみにき今日は正目に最上川と君と
桐の木の高きに赭く実は枯れてしぐれ降るなりみちのくのしぐれ 『北西風』
自信なく立ち向ふ世に後れつつタベ灯ればかへるわが家
敗れたる戦記に読めりみんなみの島に餓ゑつつ蜘蛛を争ふ
教室の壁に消さざる文字ありてすさび行くごとし学生も吾も
石打ちてせめぎ合ふ群に氷のごとき心にひとり立ちてありしか
封鎖解きて再び灯る実験棟しづかなる雪はかの日忘れしむ
生きてみてこんなものかといふ声す自らの声か或いは死者の
老いてなほ美しきものを仔は見む若かりし日に見えざりしもの
◆参照元一覧◆
- 扇畑忠雄 – Wikipedia: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E7%95%91%E5%BF%A0%E9%9B%84
- せんだい 文学マップ – 仙台市: https://www.smma.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/bungakumapH28-1.pdf
- 扇畑忠歌碑・海鮮義美音楽碑・ エドマンド・ブランデン詩碑: https://www.sendai-lit.jp/login/wp-content/uploads/2017/03/ad520e9480e83ad17c4c0c52511aec68.pdf
- 歌人「扇畑忠雄展–学と芸の綜合」(仙台文学館)—老いてなほ …: https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/20070114/1168778115
- 扇畑忠雄(おうぎはた ただお)とは? 意味や使い方 – コトバンク: https://kotobank.jp/word/%E6%89%87%E7%95%91%E5%BF%A0%E9%9B%84-1059465
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