大江千里 – 平安時代を彩った漢学者歌人の軌跡
大江千里(おおえのちさと)は、平安時代前期を代表する貴族・歌人・学者として知られています。生没年は明確ではありませんが、おおよそ850年頃から905年頃と推定されています。彼は参議・大江音人(おとんど)の三男として生まれました。一説によれば父の大江音人は阿保(あぼ)親王の落胤とされ、そのため在原業平・在原行平といった著名な歌人は大江千里の叔父にあたるという血縁関係があったとされています。
大江家は菅原家と並ぶ学問の名家として当時の朝廷で重きをなしていました。千里自身も大学寮で学び、清和天皇の時代には菅原是善らと『貞観格式』の編纂に参画するなど、学者としての才能を発揮しました。彼の官歴を見ると、醍醐朝において中務少丞・兵部少丞・兵部大丞などを務め、また家集『句題和歌』の詞書からは伊予権守や式部権大輔を歴任していたことが知られています。しかし、弟の千古(ちふる)や甥の維時(これとき)などと比べると、詩人としての評価は高くなく、官途においては不遇であったといわれています。彼の最終官位は正五位下・式部権大輔で、延喜3年(903年)に兵部大丞を極官としたとされています。
和歌の世界においては、「是貞親王家歌合」「寛平御時后宮歌合」などに出詠し、宇多天皇からは古今の歌の類聚を委嘱されるなど、その才能を認められていました。特に寛平9年(897年)には宇多天皇の勅命により家集『句題和歌』(大江千里集)を撰集・献上しており、これは一種の翻訳文学として文学史上でも重要な位置を占めています。『句題和歌』は、中国の詩人・白居易の『白氏文集』の詩句を題材として和歌に翻案したもので、漢詩と和歌の融合という新しい試みを示したものでした。
大江千里は『古今和歌集』に10首が入集するなど、以降の勅撰和歌集にも計25首が採られています。彼の歌風は儒家風で、特に『白氏文集』の詩句を和歌によって表現しようとしたところに特徴があります。一方で、大学で学んだ儒者でありながら、彼自身の漢詩作品はほとんど残されていないことも特筆すべき点です。
大江千里の最も有名な和歌は、『小倉百人一首』にも選ばれた「月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど」でしょう。この歌は白居易「白氏文集」の中の「燕子桜」という詩の「燕子桜中霜月の夜 秋来たって只一人のために長し」の影響を受けているといわれています。秋の月を見るとさまざまなものが悲しく感じられるが、それは私一人のためだけの秋ではないのに、という内容で、物事に感傷的になる秋の情緒を見事に表現しています。
また、新古今和歌集に収められた「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしく物ぞなき」も名高い一首です。これは「文集嘉陵春夜の詩、不明不暗朧々月」という白氏文集の一句を題にして詠んだもので、春の夜の朧月夜の美しさを絶妙に表現しています。
大江千里は中古三十六歌仙の一人に数えられ、平安時代初期における漢詩文の和歌への影響を体現した歌人として、日本文学史上において重要な位置を占めています。彼の業績は、中国文学の日本化という文化的融合の一例として、今日でも高く評価されています。
大江千里 和歌
月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど(古今和歌集・秋上)
[現代語訳:月を見ると様々なものが悲しく感じられる。私ひとりだけのための秋ではないのに。]
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