近代日本を駆け抜けた歌魂
土屋文明(つちや ぶんめい)は、1890年に群馬県で生まれ、1990年にその百年の生を閉じた近代日本を代表する歌人であり、国文学者です。旧制高崎中学校時代から雅号「蛇床子」で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿し、詩歌への情熱を早くから燃やしました。上京後、明治・大正期を代表する歌人伊藤左千夫に師事し、短歌の薫陶を受けて『アララギ』に参加。この縁は文明の文学人生に大きな転機をもたらしました。
文学活動の傍ら、菊池寛・芥川龍之介らとともに第三次「新思潮」にも参加。小説や戯曲にも挑み、文壇の若手として活躍します。そして教育者としても長野県の女学校教頭、校長を務めて社会に尽力しました。
昭和に入り、歌集『ふゆくさ』『往還集』『山谷集』『六月風』を次々に発表。戦中・戦後の混乱と再生の中で短歌作品を重ね、昭和歌壇を牽引する一人となります。同時に『万葉集』研究にも力を注ぎ、現代短歌界の歴史と発展に大きく寄与しました。
ここでは、土屋文明の生涯・歌人としての歩み、その温かな人柄や短歌への想い、そして年代順に発表された主な歌集、代表的な短歌作品などを、エピソードも交えて詳しく紹介していきます。
幼少期の背景と若き日々 ― 文学への情熱
土屋文明は1890年、現在の群馬県高崎市で生まれました。高崎中学に在学中からすでに文学への才能を発揮し、「蛇床子(おとこえし)」の筆名で雑誌『ホトトギス』に短歌や俳句の投稿を始めています。当時の彼はまだ十代半ばでしたが、すでに詩歌の世界に深い関心を抱いていたことがうかがえます。
師・伊藤左千夫との出会い ― 歌人としての礎
高校卒業後、土屋文明は上京を果たします。その目的は、短歌を本格的に学び、自己表現の道を極めることにありました。上京後すぐ、時代を代表する歌人伊藤左千夫に師事。文明はまぶしいほど素直で熱心な性格で、左千夫のもとで歌の道を徹底的に学びます。そこで『アララギ』誌への参加を果たし、新進気鋭の若手歌人として名を高めていきます。この出会いと導きこそが、のちの「アララギ派」の中心的人物となる端緒でした。
多彩な才能 ― 文学サークル「新思潮」との交友
大学進学は、伊藤左千夫の格別のはからいで第一高等学校文科を経て、東京帝国大学へと進みます。在学中、菊池寛や芥川龍之介、久米正雄らと知り合い、第三次「新思潮」に加わって小説や戯曲も発表。ジャンルを越えた文学体験が、土屋文明の幅広い視野と思考を磨き上げました。新思潮の同人たちとの友情や文学談義は、青年文明の人格と創作に多大な影響を与えました。
教育者としての道と「人を育てる喜び」
東京帝国大学卒業後、土屋文明は文学活動に加え、教育の分野でも尽力します。長野県の女学校で教頭、校長として若者たちの育成に力を注ぎます。地方での教育現場で得た、生徒たちとの交流や地域社会の息づかいは、のちの歌にも温もりとして反映されています。自らの経験を、「教えることで自分自身も成長できる」と語っていたと伝わり、人への眼差しの優しさや、懐の深さが感じられます。
歌集発表の歩み ― 年代順解説
1925年 『ふゆくさ』(第一歌集)
法政大学予科教授として東京に再び移り住んだ1925年、ついに第一歌集『ふゆくさ』を刊行。戦前の日本社会の空気や、時代の変化への繊細な感受性を見せる初の本格的な歌集となりました。
1930年 『往還集』(昭和5年)
昭和初期、斎藤茂吉よりアララギ編集・発行責任者を引き継ぎ、歌壇の中心へ。1930年『往還集』を発表し、文学的円熟期に入ります。日常生活・家族との情感・自己省察が深い歌群となりました。
1935年 『山谷集』(昭和10年)
次いで1935年の『山谷集』は、教師や家庭人としての経験、山村生活の風景と交じわる人間模様を伸びやかに詠み込んでいます。
1942年 『六月風』(昭和17年)
戦時下という日本の苦しい時代を反映しつつも、自然と人生の息づかいを率直に詠んだ1942年の『六月風』。困難な時代の思索や静かな抵抗がにじみます。
1946年 『韮菁集』(昭和21年)
第二次世界大戦をはさみ、北京や戦地視察なども経て、敗戦と東京空襲ののち群馬に疎開。その経験を元に戦後第一弾の『韮菁集』を1946年に刊行。被災・復興への祈りを短歌に託しました。
1948年 『山下水』(昭和23年)
復興日本の新しい息吹を感じさせる『山下水』は、素朴な自然詠と人間讃歌の傑作多数を収録しています。
1953年 『自流泉』(昭和28年)
続けて1953年刊の『自流泉』には、老いへの静かな思慮や、人生の円熟した余裕を感じさせる歌が多く、戦後歌壇に欠かせぬ歌人としての地位を決定的なものにしました。
昭和歌壇への貢献と万葉集研究
土屋文明は、アララギ派の中心人物として、そして昭和を代表する歌人の一人として、40年以上にわたり現代短歌の興隆に中心的役割を果たします。また、国文学者として万葉集などの古典研究に尽力し、多くの論文や著作を世に送りました。彼の万葉集への愛着と学識は、学問界でも高く評価されています。
人柄と晩年 ― 謙虚さと不屈の精神
文明は生涯を通じて、自然や人々、社会に対する温かな観察眼と謙虚な心を持ち続けました。作品は平明でありながら深い情感を湛え、名利を求めず、人びとの暮らしに寄り添った詩心を大切にしたと言われます。1990年、その生涯の幕を閉じるまで、文明は絶えず詩作をつづけ、短歌への情熱を燃やし続けました。
土屋文明 短歌
今朝ははや咲く力なき睡蓮やふたたび水にかげはうつらず 『ふゆくさ』
この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず
榛並木さゐさゐ沈む原遠く地を伝わりて来る音あり
ひるすぎの暑さは迫るこの三月三度うつりてなほせまき家
山の上は秋となりぬれ野葡萄の実の酸きにも人を恋ひもこそすれ
新しき橋つくり居り赤々と焼けたる鋲を投げかはしつつ 『往還集』
ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交絶てり
父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼く
流れ合ふ池の水口にあぎとふは生きのこりたる鯉群るるなり
吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたかりき
新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな 『山谷集』
嵐の如く機械うなれる工場地帯入り来て人間の影だにも見ず
子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず
三月の尽くらむ今日を感じ居り学校教師となりて長きかな
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす
にぎはへる銀座ゆきつつおのづから吾が感 情は戦争を肯定す
春の日のかぎれる中にひらめきて鉄截る酸素の焰きびしき
稀に見る人は親しき雨具して起重機の上に出でて来れる
みんみん蝉あまた鋭く響ければあはれ衰へてつくつくほふし啼く
無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ
吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は
勢を揃へ京に向ふ時すらに直き古は畏るること知りき 『六月風』
並槻のすがるる上にたなびきてあな長きか な白き煙の
半島人内地人外国人中に外国人優越者の如くあゆめり
引きずり出す鉄板の見る見る黒く冷えゆくをたたき折りぬ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
吾等追ひぬき大股にすぎし毛唐一人裸になりビールをのみつつ立てり
垢づける面にかがやく目の光民族の聡明を少年に見る 『韮菁集』
七月に雪水到り甘粛の雨水は到る九月なかばごろ
ほこりたて羊群うつる草原あり黄河の方はやや低く見ゆ
吾妻を利根に越えゆく中山に山を照らして今日の山吹『山下水』
初々しく立ち居するハル子さんに会ひましたよ佐保の山べの未亡人寄宿舎
歌よみが太平楽をならぶるを年のはじめの滑稽とする
折あらば奈良にゆきハル子さんを見たまヘな藷うゑ静かな寄宿舎なり
垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ
かにかくに論ふともうぬらが母の言葉のひびく国に起き臥す
険しくして狭き畑に掘り並ぶる甘藷に午後の影しるく立つ
にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ
評論はわけのわからぬを常として我がことあればそのめぐりだけ読む
わが庭に植ゑたる葷きもの六種韮にんにく分葱浅葱葱玉葱
あはれみて音を住まはす村人のかこへる野菜少しづつくれる 『自流泉』
音たてて流るる水は春の水ぎしぎしの紅の芽を浸しゆく
帰り来しつばくら二つ去年の巣を少しつくろひ住みつかむとす
澄みとほる西日となりて此の谷のははそのもみぢはてしなく見ゆ
正岡の升さんあり子規あり就中我が命寄る竹の里人
善き夫直き子供等にみとられて静かなりける臨終をきく
吾が植ゑし農林一号二十二株むらがる白花風に靡くなり
白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか 『青南集』
能なきをよりどころとし過ぎて来てわづかに残る努めむ心 『続青南集』
見おろしにひびく滝水練絹をかけてかがやく那智の補陀落
寝たきり老人はたまらぬと手足に命令す朝は既に午に近づく 『青南後集』
今朝ははや咲く力なき睡蓮や水に再び影は返らず (歌集未収録)
左より少し大きな右こぶし貧しき九十五年 の一生を示す
【参考文献】
- 土屋文明『ふゆくさ』『往還集』『山谷集』『六月風』『韮菁集』『山下水』『自流泉』
- 土屋文明 | Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/土屋文明
- 「近代日本の歌人たち」NHK出版
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