佐々木信綱の生涯と業績
生い立ちと教育
佐々木信綱(1872–1963年)は、三重県鈴鹿市石薬師町に生まれた歌人であり、国文学者歌学者、鈴屋派の歌人です。足代弘訓に師事した歌人・歌学者であった父、弘綱の英才教育を受け、信綱は10歳で上京し、高崎正風の門下に入り和歌を学び始めました。
1884年には東京帝国大学古典科に進学し、国文学や古典の知識を深めました。これらの学びが後の信綱の業績に大きな影響を与えています。
和歌の道
1898(明3)年、歌誌 「心の花」を創刊。結社「竹柏会」を主宰。木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮、相馬御風など多くの歌人を育成。旧派 と新派、明星系と根岸系、歌壇と学界の橋渡しを担い、正岡子規、与謝野鉄幹らと和歌革新を推進。
生涯、短歌の流布を使命と し、個性を尊重して「心の花」内外に多く の弟子を育てました。
また、『万葉集』の研究においても第一人者として知られています。彼の研究は万葉学の発展に貢献し、後世の研究者たちに多くの影響を与えました。
主な業績
歌集『鶯』『椎の木』『瀬の音』『思草』『新月』『常盤木』『山と水と』ほか。
研究・編著は 『校本万葉集』など膨大な数になる。
『思草』や『新思草』など多くの和歌集を刊行。
『万葉集』や『古事記』の研究に従事し、日本古典文学の解釈と普及に尽力。
校歌の作詞家としても活動し、全国の120以上の学校で使用されている校歌の詞を手がけました。
晩年と影響
晩年の信綱は研究と創作に没頭し続けました。彼の仕事は和歌のみならず、日本文化全体の発展に寄与しました。1963年、92歳でこの世を去りましたが、その業績と影響は現在も受け継がれています。
佐々木信綱の意義
信綱の生涯を通じて見られるのは、日本の伝統文化を未来へと繋ぐ情熱です。彼の作品や研究は、現代においても日本文学の重要な柱として輝いています。
佐々木信綱 短歌
幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ『思草』
白帆きえ船唄きえておぼろ夜の月にたゞよふ千島百島
新嫁のつゝましげなる田植歌たのもすゞしき朝風ぞふく
ぬば玉の夜半のさ霧にまぎれ入りてさながら消えむ此身ともがな
願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはゞや
俯して見る大やしま国あまりにも小さくもあるか大やしま国
真心の民住める国一すぢの君います国桜にほふ国
破れたる傘さして子等ぞゆく古き駅の雨のゆふぐれ
荒小田をかへす若人力ある強きかひなに春の日の照る 『新月』
何するも物うし此の頃何するも芝居をするがごとく思はれ
野の末を移住民など行く如きくちなし色の寒き冬の日
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
よき事に終のありといふやうにたいさん木の花がくづるる
我が生はあまりにさびし秋風に九十九里の浜ふみゆく如し
敷島の名まとの国をつくり成す一人とわれを愛惜まざらめや 『常盤木』
人の世はめでたし朝の日をうけてすきとほる葉の青きかがやき
夢にあらず此のいたましさはまさに吾が前にある現ならずや 『豊旗雲』
真白帆によき風みてて月の夜を夜すがら越ゆる洞庭の湖 『遊清吟藻』
二本の柿の木の間の夕空の浅黄に暮れて水星は見ゆ 『椎の木』
少女なれば諸頬につけし紅のいろも額の櫛も可愛しき埴輪 『瀬の音』
やまぶきの花にふる雨細くして此の朝窓にこころあかるし
あまりにも白き月なりさきの世の誰が魂の遊ぶ月夜ぞ 『山と水と』
西山の老学生が友とし見る向つ和田山のあしたあしたの色
夜に入れば秋らしき冷校正のインク薄きにわが目しぶるも
わが心くもらひくらし海は山はきのふのままの海山なるを
元寇の後六百六十年大いなる国難来たる国難は来たる 『佐佐木信綱歌集』
夕庭は一樹の梅の寂かなる光のもとにわが一人ある
花さきみのらむ知らずいつくしみ猶もちいつく夢の木実を (歌集未収録)
垣ごしに見る梔子花いろあせたり昨日の子犬今日も寄りくる
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