百人一首25番—三条右大臣『さねかづら』の恋と謎を徹底解説

三条右大臣

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百人一首を彩る名歌の世界:三条右大臣の恋歌に寄せて

平安時代を彩る和歌の名作。そのなかでも『百人一首』は、日本の伝統文化や古き良き日本人の情愛を今に伝える歌集として、長い歳月を経てもなお多くの人に愛されています。和歌は、わずか三十一文字で深い感情や情景を描写しますが、その中には、恋や別れ、四季の移ろいや人間模様が繊細に綴られています。

『百人一首』に選ばれた歌は、その時代ごとの人々の想いや文化を、コンパクトでありながらも豊かに表現しているため、一首一首が宝石のような輝きを放っています。特に、「名にし負はば逢坂山のさねかづら…」の一首は、多くの人々の心に恋の切なさと秘めた思いの深さを伝えてきました。

この歌は、恋人に対して秘密の愛を伝えたいという強い願いが、自然物である“さねかづら”という植物に託されて詠まれています。“さねかづら”はそのつるを繰り寄せる様子から、人知れず相手に会いに行くことを重ねています。いかにも古典文学らしい技巧と感情を凝縮した表現です。三条右大臣(藤原定方)のこの和歌には、恋の情熱と同時に、相手に知られずに逢いたいという慎み深い思いが織り込まれており、現代人の心にもやさしく響くのです。

三条右大臣(藤原定方)

名にし負はば 逢坂山のさねかづら
人に知られて くるよしもがな

「後撰集」卷一一・三

現代語訳
もし逢坂山の「さねかづら」が、(名前通り)「逢う」という意味を本当に持っているのであれば、その「さねかづら」のつるを手繰り寄せてあなたに逢いに行くように、誰にも知られずにそっとあなたの元へ通う方法があればいいのになぁ。

 

【語句の意味】

  • 名にし負はば: 名前の通りであるならば
  • 逢坂山: 京都と滋賀の国境にある山。「逢う」と「坂」をかけている
  • さねかづら: モクレン科のつる性植物。ここでは「さ寝」(ともに寝る)と「蔓を手繰る」をかけている
  • 知られで: 「知られずに」。打ち消しの接続助詞「で」使用
  • くる: 「繰る」と「来る」の掛詞。「蔓を繰り寄せる」と「あなたの元に来る」を重ねている
  • よしもがな: 手だてがほしい、願う気持ちを込めた表現

 

【歌の鑑賞】

この歌は『後撰和歌集』の詞書に「女のもとにつかはしける」と記されている通り、恋する相手の女性に贈られた恋歌です。平安時代には、歌に季節の草花や植物の枝を添えて贈る風習がありました。「さねかづら」は、古くからそのつるを添えて贈る風流な草花として知られており、「さ寝かづら」という言葉に男女がともに寝ることを重ねるなど、和歌の世界では特別な意味合いを持つ存在です。

この一首には、「名にし負はば」「逢坂山」「さねかづら」「くるよしもがな」といったさまざまな掛詞が巧みに用いられています。その巧みさは、恋歌における知的で優雅な遊び心、和歌の技巧を極めた表現であると高く評価されてきました。特に「さねかづら」のつるが絡み合い相手に近づこうとする“自然”の現象と、密かにでも相手のもとへ通いたいという“人間”の深い恋心を重ね合わせることで、ただの恋歌以上の趣(おもむき)を感じさせてくれます。

「くるよしもがな」という結句(歌の最後の部分)については議論がありました。通常、平安時代の恋愛では男性が女性の元へ通うのが一般的でしたから、「来る」という表現は女性の立場ではないか?と違和感を覚えるという説もあります。しかし、実際にはこの表現は「あなたのもとに通いたいほど切ない恋の願い」であり、歌が植物という媒介を通して恋心をひそやかに表現していることからも、性別を超えた普遍的な切なさや願望が感じ取れます。

この和歌には、当時の恋愛観や価値観だけでなく、秘密の恋愛を成就させたいという人間の普遍的な願いが込められています。恋の相手に自分の気持ちを告げるのは簡単なことではなく、だからこそ「さねかづら」のように密かに想いを“繰り寄せたい”と願ったのでしょう。

【歌集:後撰和歌集】

『後撰和歌集』は、天暦5年(951年)に編纂された第二番目の勅撰和歌集です。勅撰和歌集とは、天皇や皇族の命によって選ばれた、優れた和歌を集めた歌集です。『古今和歌集』が最初の勅撰集とされるのに対して、『後撰和歌集』はその後を追う形で成立しました。この歌集には、平安時代中期の独特の美意識や恋愛観、自然観が色濃く反映されています。

特に『後撰和歌集』は恋の歌のバリエーションが多く、その時代の貴族社会における恋愛事情、社交の様子、儀礼としての和歌の役割などが伺えます。和歌は単なる趣味や表現の手段ではなく、重要なコミュニケーションのツールであり、人間関係を潤滑にし、想いを伝え、時に社交の駆け引きをもたらすものでした。

また、『後撰和歌集』には詞書(ことばがき)が添えられている和歌が多く、どのような背景、どのような場面で詠まれた歌なのかが記されています。こうした詞書から、当時の具体的なエピソードや社会的背景を読み解くことができ、単なる詩歌の集成を超えた歴史的価値があると評価されています。

藤原定方による今回取り上げた恋歌も、「女のもとにつかはしける」と詞書があり、現代のラブレターのような役割を果たしたことが窺えます。当時は男性から女性に歌を贈ることで、恋心や好意を伝えていたのです。この歌集は、貴族たちの日常や心情を映す鏡のような役割を果たしており、「歌壇」と呼ばれる和歌を中心とした人々の交流を育みました。

【作者について:三条右大臣(藤原定方)】

三条右大臣として知られる藤原定方(ふじわらの さだかた、873–932年)は、平安時代前期から中期にかけて活躍した公卿であり、和歌の名手としても知られています。ちなみに「三条右大臣」という名は、彼の官職と屋敷の所在地(三条)にちなんだ呼び名です。

定方は、内大臣であった藤原高藤を父に持つ名家の生まれで、権力と教養を兼ね備えた貴族でした。彼の息子には、やはり『百人一首』に登場する和歌の才人・藤原明衡がいます。定方自身は右大臣の位まで昇進し、宮廷内では人柄のよさ、風流さ、そして多芸多才さで知られていました。特に和歌だけでなく、管弦、つまり雅楽の分野にも長けており、その音楽的才能も大いに珍重されていたと伝えられています。

彼の人生には、当時の貴族社会そのものともいえる華やかさがありましたが、同時にさまざまな複雑さもありました。当時の貴族は、政治的な駆け引きや家柄間の争い、複雑な恋愛模様に巻き込まれることもしばしばです。定方もまた、貴族社会独特の人間関係や恋愛経験を重ねる中で、数々の名歌を遺しました。

宮廷では「和歌四天王」と呼ばれるほどの実力者で、現代でいえば“サロンの人気者”のような立ち位置。四季折々の宴や、特別な行事で詠まれた即興の歌の数々は、当時の宮廷文化を象徴しています。また、定方は多くの後進歌人や学者たちの後援者としてもも知られ、和歌文化の発展に大きく貢献しました。

【まとめ:現代に生きる百人一首の心】

この歌とその背景を知ることで、私たちは単なる恋歌以上のものを感じ取ることができるでしょう。短い言葉の中に多くの意味を込め、掛詞や表現技法を駆使して相手へと想いを伝える工夫は、平安時代の“知的エンターテイメント”とも言えるものでした。

“さねかづら”の蔓を手繰るように、一つ一つの和歌の意味や背景にじっくりと目を向けてみれば、数百年を経た今も、変わらぬ人々の心の動きが感じられます。恋に悩み、時に傷つき、それでも誰かに逢いたいと願う心。それは時代が変わっても人間の本質は変わらないのだと静かに教えてくれるのです。この一首から、みなさんも日本の古典文学の奥深さと普遍的な人間の想いを感じていただければ幸いです。

 

【参考文献・引用元】

  1. 「新編 日本古典文学全集 百人一首」小学館
  2. 「後撰和歌集」岩波書店

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