鮮やかな紅葉に託した祈り【菅家】「このたびは」の深読み解説

管家

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「旅路と祈り、そして人の心」菅家の一首にこめられた想い

日本の古典文学を語るうえで、「百人一首」という存在を抜きにはできません。その一首一首には、時代を超えて響き合う人の心や、自然への敬意、そして思わず胸ふるわせる繊細な情景が詰まっています。
たとえば、今回取り上げる菅家(菅原道真)の名歌、「このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」は、旅の途上、あるいは人生そのものの道行きを美しい紅葉に託し、神仏への祈りと人の誠意を見事に織り込んだ名作です。急な旅立ちに“用意ができなかった”という表の言葉の奥に、はっと目を奪われるほどの紅葉の美と、その美をさらに神々へのお供えに仕立て上げた詩心。
目の前の景色を讃えながら、日々の頑張りや祈りが天に通じることを願う…そんな心のやりとりが描かれているからこそ、この一首は現代にも人々の心をとらえ続けているのかもしれません。
道祖神や幣(ぬさ)、手向山といった古代の風習と言葉に思いを馳せながら、この和歌が生まれた背景や作者の人生、歌集の意義、一首の深い意味合いをじっくり紐解いていきましょう。

二四、菅家(かんけ)—菅原道真(すがわらのみちざね)

このたびはぬきも取りあへず手向山たむけやま
紅葉もみぢにしき神のまにまに

「古今集」巻九・羇旅」

【現代語訳】
このたびの旅は、あまりにも急だったので、幣(ぬさ=神への捧げもの)を用意することができませんでした。
そのかわりに、この手向山に色鮮やかに広がる錦のような紅葉を神さまへの捧げものといたします。どうか神さまの御心にかないますように、お受け取りください。

【語句の意味】
・このたび
「たび」には「旅」と「度」の両方の意味がかけられている。「今回の旅」「この度この場所を通ること」という重なり。

・幣(ぬさ)
神様へのお供え物。麻、木綿、紙などを細かく切って、道祖神や神々に安全祈願として捧げる風習があった。

・取りあへず
用意することもできない。「あへず」は「〜することができない」の意味。「準備できず」の意。

・手向山(たむけやま)
山城国(現在の京都南端あたり)と大和国(奈良県)の境目。都から奈良へ向かう交通の要衝で、旅人が道祖神に幣を捧げ、無事を祈った場所(山の名であり、峠の総称でもある)。

・神のまにまに
神様の御心のままに。下に「お受け取りください」等が省略されており、敬意がこめられている。

【歌の鑑賞】

この歌は、旅人が峠に祀られた道祖神に無事を祈るという、日本の古い風習を巧みにとりいれています。しかし表現の巧みさは、単なる形式を超え、“今まさに目の前にある自然の美しさ”を神聖なものとして昇華するところにあります。

実際に幣が用意できなかったことを、決して言い訳としてではなく、あたかも紅葉という自然の贈り物こそが最上のお供えであると逆転の発想で表現する詩心は、さすがのもの。「幣も取りあへず」は、単にそそっかしい旅人の告白ではなく、「紅葉の錦」という比類なき自然の美に圧倒され、これが捧げものとして一番ふさわしいという尊敬と感動に満ちています。

『手向山』は、山城国と大和国の境に実際に存在した地名であり、古代より多くの人が往来する交通の要衝として、旅の無事を祈る人々が幣を手向けたことで知られています。万葉集や古今集などにもたびたび登場し、旅の安全祈願や人の営みが込められてきました。

この歌の魅力は、まず何よりも「紅葉の錦」という表現の生き生きとした色彩感にあります。まるで山全体が錦織りのように一面美しく彩られている、その圧倒的な美の中で自分の用意できる幣など足元にも及ばないと謙譲し、自然と神々に素直な気持ちを捧げる。その姿勢は、単なる旅人としてではなく、自然と生命に正面から向き合う人間としての真摯さを感じさせます。

「神のまにまに」という結びは、人間の手でどうこうするのではなく、全ては神の思し召しに委ねるほかないという敬虔な心もあらわしています。急な旅立ちで心の準備も物理的な準備も足りなかったという、ある種の「はかなさ」も滲ませつつ、それでもなお“今自分ができること”をまっすぐ神に、そして自然に届けようとする誠実さが、この一首の余韻をより一層深いものにしています。

また歌が詠まれたとされる状況も、興味深い背景を持ちます。古今集の調書によると、「朱雀院(宇多上皇)の奈良行きに供奉した際、手向山で詠んだ」とされています。天皇や上皇の旅の一行は格式も厳しく、突然の随行命令に慌ただしさもあったでしょう。そのなかで、形式を気にせず即興で放った一句が、逆に自然や神々への敬意を際立たせる内容になったのは、作者・菅家の才気そのものといえるでしょう。

さらに一歩踏み込めば、「自分の用意したものよりも自然の恵みの方が価値がある」という逆説的なメッセージを感じます。日常の中で私たちは、とかく「よく見せたい」「用意周到にしたい」と思いがちですが、時に身軽でありのままを受け入れる潔さ、ハッとするほど美しい瞬間に委ねてみる深呼吸のような気持ちこそが大切なのだと語りかけています。

その土地その時その瞬間―自然の美、旅の中の偶然の出会い、それに心から向き合う感動。千年の時を超えて、この歌が多くの人の共感を得てきた理由は、ここにあるといえるでしょう。

【歌の載っている歌集】

この歌は、勅撰和歌集である『古今和歌集』(略称:古今集)の九巻「羇旅(きりょ)」—旅を主題にした部分に掲載されています。
『古今和歌集』は、平安時代前期を代表する歌集としてとても有名です。905年(延喜5年)、宇多上皇の勅命により編纂され、撰者には紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑など当時の歌壇の重鎮たちが名を連ねました。

この歌集は「日本最初の勅撰和歌集」として知られ、巻数20・収録歌数1,111首と膨大な数をほこります。恋・季節・哀傷・雑歌などテーマごとに分類され、格式と革新性が共存しています。和歌のスタイルや言葉選びが洗練されており、読者の心に染み入るような叙情性が際立つのが特徴です。

菅原道真の歌はその中でも特に「羇旅」という、旅や異郷の感慨を詠んだ巻に収められている点に注目です。平安時代の旅は今とは比べものにならないほど危険と苦労がともない、道祖神への祈りは切実なものでした。その祈りを美しい自然描写で包みこむ点に、この歌集全体の世界観、「自然の移ろいの中で人の心はどう動くか」を大切にする姿勢を見ることができます。

さらに『古今集』は、和歌だけでなく仮名序・真名序という序文をもち、それぞれに和歌への思いや編纂の経緯が語られています。仮名序は紀貫之が執筆し、「やまと歌は人の心を種として、よろずの言の葉となれり」と有名な一文を残しました。これは、「和歌は人の心から生み出された言葉である」という日本文学の根本精神をあらわしています。

菅原道真もまたこの『古今和歌集』の流れの中で自らの心を歌に託し、後世に残しました。歌集としての完成度、時代背景との結びつき、そして多くの人の共感を呼び続ける普遍性――これらが見事に結晶した場として、この歌集が現代私たちにとってもかけがえのない財産となっています。

 

【作者についての解説】

「菅家」とは菅原道真(845年〜903年)を指す尊称です。道真は平安時代の貴族であり学者・政治家・詩人としても知られ、あらゆる分野で才能を発揮したことで後世「学問の神様」として崇敬されました。

幼少より卓越した才能を示し、“神童”として名をはせました。漢詩や和歌に優れたことはもちろん、当時の最高学府・文章院で学び、異例のスピードで出世。政治家としては宇多天皇の信任を受け、醍醐天皇のもとで右大臣にまで昇進します。

しかし、天下の才人はまた、権力闘争に巻き込まれる運命でもありました。左大臣・藤原時平ら有力貴族からの謀略により、大宰府へと左遷されてしまいます(901年)。この左遷事件の際、道真は無実を叫びながらも流罪の地で失意のうちに生涯を閉じ、多くの人々がその冤罪を惜しみました。

道真が死去したのち、①都で天変地異や疫病の流行、②藤原時平の急死など“不吉”な出来事が続いたことから、「道真の怨霊」が祟ったのではないかと人々の間で噂されるようになります。朝廷は恐れ多いと後追いで道真に“太政大臣”などの官位を贈り名誉回復を図るとともに、彼を神として祀る神社を各地に建立しました。なかでも福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮は今も多くの参拝者が「学問の神様」として訪れる場です。

また道真は、漢詩や和歌に優れた文化人でもあり、その才気溢れる作品は現代にも多くの影響を与えています。特に今回取り上げた「このたびは幣も取りあへず手向山—」は、流罪や旅路の苦難を身を以て経験した彼ならではの「旅の不安・神仏への祈り」、そして「自然の美へのまなざし」が結実した作品ともいえるでしょう。

その人柄については、「誠実」「実直」「義理堅い人物」と伝えられ、常に弱きを助け、理不尽な命令には毅然とした態度を示しました。しかし同時に、漢学者・詩人としての繊細な感性も際立っています。

【まとめ】

日本人の心に息づく季節感、自然に託す祈り、そして日常の中でふと感じる“はかなさ”や“美しさ”。菅家の「このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」は、そんな私たちの心の奥底に寄り添う名歌です。

準備が足りなかった……そう素直に詫びつつ、実はそれ以上の、自然の恵みに感謝したいという清らかな心。紅葉の絢爛たる錦を見上げて、誰もが息を呑むような瞬間を、神さまへの捧げものにしたい──そんな詩情が一首に凝縮されています。

時代は変わっても、「自分にできる誠意」「ありのままを受け入れる勇気」「今この瞬間にできる最大限の祈り」が、どの時代にも大切にされてきたことを実感します。古典文学は難しい…と思われがちですが、千年前の歌人ですら、旅の途中で予想外の出来事に出会い、思わず自然に身をゆだねようとした。そんな人間味に心温まります。

手向山の紅葉の錦──それは自然がくれる“無二の贈り物”。この歌をひもとくことで、人生の節目に“いま自分にできる最大の誠意”を思い起こしてみてはいかがでしょうか。

【参考文献・引用元】
・『新潮日本古典集成 古今和歌集』新潮社
・『菅原道真伝』(吉川弘文館)
・国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/
・古典文学学会『和歌と古今集』

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