【五島茂】『1選』知っておきたい古典~現代短歌!

夏の桜並木

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五島茂(ごとう しげる)

1900年12月5日 ~2003年12月19日 東京府東京市京橋区(現東京都中央区)に生まれ   日本の歌人、経済史学者。

東京外国語大学や明治大学、亜細亜大学などで教授を務め、多くの学生に教えを広めました。また、彼は妻の美代子とともに「立春短歌会」を主宰し、短歌の世界で大きな影響力を持ちました。

彼の父は歌人の石榑千亦で、五島茂は幼い頃から父の影響を受けて短歌を作り始めました。1907年に区立常盤小学校に入学し、この頃から自宅で発行されていた『心の花』に自作の短歌を発表するようになります。その後、東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)を卒業し、第八高等学校に進学しました。この時期に島木赤彦に師事し、「アララギ」の会員となり、小杉茂の名で短歌を発表しました。

1921年に東京帝国大学(現東京大学)経済学部に入学し、経済学を専攻します。在学中には、ロバート・オウエンの研究に取り組み、1925年には歌人の木下利玄と出会い、彼の急逝に伴い、木下の歌集編集を託されます。また、東大在学中に五島美代子と出会い、結婚。

1928年、五島茂は『短歌雑誌』に「短歌革命の進展」という連載を行い、マルクス主義的視点から当時の歌壇を鋭く批判しました。彼は同年、前川佐美雄らと共に新興歌人連盟を結成し、新しい短歌運動を目指しましたが、思想的な対立から短期間で解散してしまいました。その後、五島は『突端』という歌誌を創刊しましたが、短歌活動から一時撤退します。

1931年からイギリスに留学し、オウエンの研究を進め、1933年にドイツやフランスなどを経由して帰国します。その後、1938年には再び短歌活動を再開し、妻の美代子とともに『立春』という短歌雑誌を創刊し、主宰しました。1940年には第二歌集『海図』を発表し、短歌活動をさらに広げました。

戦後、専修大学の教授に就任し、さらに皇太子明仁(現・上皇明仁)の作歌指導も担当しました。1949年には、ロバート・オウエンの研究で経済学博士号を取得しました。彼の短歌活動は続き、1956年には現代歌人協会の初代理事長に就任し、日本の短歌界において指導的な立場を築きました。彼はまた、東京外国語大学や明治大学で教授を務め、1968年にはハワイ大学で短歌史を講義するため客員教授として赴任しました。

五島茂の短歌は、昭和初期の短歌革新運動において大きな影響を与え、その後も多くの歌集を発表しました。彼の作品には、「展く」「遠き日の霧」「無明長夜」などがあり、これらは1981年に第4回現代短歌大賞を受賞しました。1995年には、宮中歌会始の召人(詠進歌を詠む役目)にも選ばれ、その地位をさらに確立しました。

晩年、五島は103歳まで長寿を保ちましたが、2003年に東京都港区の病院で亡くなりました。葬儀は町屋斎場で行われ、葬儀委員長は思想史家の都築忠七が務めました。彼の遺した歌集や経済史に関する研究は、現在も多くの人々に読み継がれ、彼の業績は日本文化の中で長く評価され続けています。

五島茂 短歌

懶惰らんだのごとく保守に執するさがもちてともすれば新に走らむとする 『展く』

 

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