吉野 秀雄 (よしの ひでお)
1902年~1967年 群馬県高崎生まれ。歌人。書家、文人墨客。
病気のため慶応義塾大学中退後の療養生活の中で、正岡子規やアララギ派の歌人の歌に影響されて作歌をこころざす。後に会津八一(秋艸道人)の歌集『南京新唱』に影響されて師事する。
1926年(大正6)、栗林はつと結婚。1944年(昭9)、妻はつ病没。敗戦後の1946年、鎌倉アカデミア文学部の教師となり廃校までの4年間勤務。1947年『早梅集』と『寒蝉集』を刊行。生涯、病と闘いながら作歌をつづけ、生命の究極を深く見つめた自在の境地が展開される。
秀雄は正岡子規の写生から出発し、伊藤左千夫に影響され、会津八一の古語、 古調をとり入れることによって独自の歌風を確立した。
吉野 秀雄 歌集
1936年『苔径集』河発行所
1947年『寒蝉集』創元社 短歌新聞社文庫
1947年『早梅集』四季書房
1958年『吉野秀雄歌集』彌生書房
1960年『吉野秀雄歌集』角川文庫
1967年『含紅集』彌生書房
吉野 秀雄 短歌
相撲にて喉輪攻めてふ術のあるを苦しきときにおもひたぐへし 『苔径集』
日日を怠けくらしてたのしまず梅雨のしぶかひも昨日のごとしも
群鳩の羽搏ちほがらかに病室の障子に応ふ春さりにけり
病む妻と幼き四たり率ひていのちつくさむ 年ぞ来にける 『早梅集』
戦 敗れししづもりの底に一年の妻が忌日のめぐるかなしび 『寒蝉集』
関東全区空爆の夜なり痰壺を闇につかみて血を吐くわれは
薬師指ただ一茎のなまめきて匂ふいのちに触れ敢へめやも
苔のいろうるほふ頃をあまつさへ時雨過ぎけり苔庭の光沢
去年妻をなくしし我をいやましにいとしみまして母は逝きにき
骨壺を入れし鞄は上の娘とわれと互みに膝にのせあふ
これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹
水仙を挿せる李朝の徳利壺かたへに据ゑて年あらたなり
台所に泣く女童よ叱りたる自が父われも涙ぐみゐる
母死にて四日泣きゐしをさならが今朝登校す一人また一人
古畳を蚤のはねとぶ病室に汝がたまの緒は細りゆくなり
夜の風に燈心蜻蛉ただよへり汝がたましひはすでにいづくぞ
ひとり来てわれのもとほるふる寺の秋のひかりは水のごとしも 『晴陰集』
みんなみへ遠くも来しか指宿の四月の海に泳ぐ童らあり
大白鳥ら脚揃へ滑走し着水し自在なるかなわれは足萎へ 『含紅集』
彼の世より呼び立つるにやこの世にて引き留むるにや熊蝉の声
神妙にーな-も-わあ-み-だ-ぶちー唱ふれど辺地解慢も覚束なわれは
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