岡野弘彦、その人物像と人生の軌跡
岡野弘彦(おかのひろひこ)は、1924年(大正13年)7月7日に三重県に生まれました。日本を代表する歌人の一人であり、日本芸術院会員や文化功労者、國學院大學名誉教授といった、文学界の頂点に位置づけられる経歴を持っています。岡野の生涯とその人柄、和歌に対する熱意や学生指導にかけた情熱は、多くの人々に影響を与えてきました。
幼少期と学問への志
岡野弘彦は昭和初期、日本が社会的にも経済的にも大きく揺れていた時代に、三重県で誕生しました。幼い頃から国文学に強く興味を持ち、高等学校への進学後は、文学や古典、宗教に関する知識を深めていきます。國學院大學では日本文学科に進み、学問の道を着実に歩んでいきます。在学中には、当時の指導教授や文学仲間と切磋琢磨し、多くの和歌創作とともに、古典文学への旺盛な探求心を持ち続けました。
歌人としての歩みと業績
大学卒業後、岡野は歌人として本格的に活動を始めています。戦後日本の復興期は、社会的にも大きく価値観が揺らぐ時代でしたが、岡野は時代の荒波に飲み込まれることなく、独自の視点から和歌の世界を模索し続けました。彼は短歌誌「心の花」などの主要歌誌を舞台に詩作と評論活動を展開し、その新鮮な感性と深い詩情で、短歌界に新風を吹き込みます。
岡野が発表した代表的な歌集には、『沙の中より』(1971年)、『日月』(1983年)、『花蔭の道』(1994年)、『水の渚を歩む如く』(2007年)など、多くの作品があります。そのどれもが現代短歌の発展に大きく寄与し、文学的評価の高いものといえるでしょう。歌集の発表は年代順に次の通りです。
教育者としての顔と人柄
岡野は國學院大學にて長きにわたり後進育成に携わってきました。その授業は非常に熱心で、ひとりひとりの学生に愛情を持って接する姿勢が印象的でした。指導を受けた学生たちによれば、「歌作りだけでなく、人生相談にも真剣所」を、言葉の力で伝える表現者として高く評価されています。
人柄に関するエピソード
教え子からは「先生の前では自然と素直になれる」「失敗に寄り添い、勇気を与えてくれる存在だった」という声が多く寄せられています。自身の実体験や文学観を語り、若い世代と真摯に向き合う姿勢は、教育者としても歌人としても大きな影響力を持っていました。
当時の時代背景や出来事
岡野弘彦が生まれた1924年は、大正末期で社会変動の時代でした。1920年代から30年代にかけ、日本は世界恐慌・軍国主義台頭・昭和初期の不況など、不安定な社会情勢が続きます。
やがて太平洋戦争へと突入し、学徒動員や生活の困窮など暗い時代が到来。戦後は焼け野原からの文明復興が始まり、民主化や高度経済成長の波が日本社会を大きく変えました。高度経済成長期(1955~1973)は、国民生活も豊かになり、文化や芸術の自由も広がります。
短歌界も戦後民主主義の流れで若手歌人の台頭、既成観念の変化が生じるなど、激しい世代交代の時期でした。そのようななかで岡野は「心の花」グループや各学界との交流を通して、伝統と革新の狭間で自らの表現と存在意義を模索し続けたのです。
岡野弘彦 和歌
あたらしく得し恋をわれに聞かせつつ海よりも暗き瞳してゐる 『冬の家族』
辛くして我が生き得しは彼等より狡猾なりし故にあらじか
きつね妻子をおきて去る物語歳かはる夜に聞けば身にしむ
草の上に子は清くして遊ぶゆゑ地蔵和讃をわれは思へり
椎の木のそよぎをぐらき庭に立ちてくづれくる心を叱りぬるなり
目馴れこし夜空にそそる杉の秀のするどき揺れを眼より放たず
わが胸に苦しき泉湧く音をひそかに測りゐる白き耳
なきがらの帰らぬ死にを歎かねど悲しき親の身は痩せに痩す
人はみな悲しみの器。頭を垂りて心ただよふ夜の電車に
またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく
草の葉のそよぎしづまるさ夜ふけて去りがたくゐる人を去らせぬ
『海のまほろば』
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