住の江の岸に寄る波【藤原敏行】と平安の恋心を読み解く!

藤原敏行朝臣

藤原敏行朝臣

波間に揺れる平安の恋心と夢の道

平安時代の人々が心のうちに秘めた恋の想い――それは繊細な言葉や美しい自然の情景に重ねて表現されてきました。恋しい人を直に訪れることさえためらわれた時代、夜陰や夢の中ですら、恋する者たちは様々な想いを馳せました。百人一首十八番「住の江の岸に寄る波よるさへや…」は、そんな平安の恋の切なさと機微を見事に捉えています。
この歌を詠んだのは、三十六歌仙のひとりであり、多くの名歌を残した藤原敏行(ふじわらのとしゆき)。彼が「古今集」に残したこの和歌は、夢の通い路にも人目を気にする恋、波の寄せる情景、優雅な言葉遊び、そして恋の不安、そんな複雑な心のうちが一つの歌にぎゅっと詰め込まれています。
今回は、この歌の情景や言葉に込められた意味を丁寧に解きほぐしながら、藤原敏行という人物の魅力にも迫ります。恋の歌に託された時代の息吹と、人間らしい悩みや愛しさに目を向けてみませんか?
読み終えるころには、そっと誰かに手紙を出したくなる――そんな余韻が残る一篇を、感謝を込めてお届けいたします。

十八、藤原敏行朝臣

すみの江の岸に寄る波よるさへや ひとの夢のかよ路人目ぢひとめよくらむ

「古今集』巻一二・恋二

【現代語訳】

住の江の岸へ打ち寄せる波の「よる」ではありませんが、昼だけでなく夜までも、どうして夢の中であなたは人目を避けて私の元に来てくれないのでしょうか――。

語句の意味

  • 住の江(すみのえ):摂津の国(今の大阪府)の住吉の浦。百人一首でもたびたび詠まれる美しい海岸。
  • 寄る波:岸に寄せては返す波。「住の江の岸に寄る波」までが「よる(夜)」につなげる序詞。
  • よるさへや:「夜までも」という意味。波が「寄る」と、夜をかけて、「さへ」は「〜までも」、疑問の「や」で「どうして〜であろうか」となる。
  • 夢の通ひ路:夢の中で恋しい人のもとへ通う道。
  • 人目よくらむ:「人目を避けているのだろうか」の意。「よく」は「避く」の音便形。「らむ」は推量を表す助動詞です。恋人(または自分)が“夢のなかでさえ”人目を気にして会いに来ないことを詠んでいる。

【歌の鑑賞】

この歌は『古今和歌集』巻十二「恋二」の部に収められています。歌の前書きには、「寛平御時后宮の歌合の歌」とあります。これは宇多天皇の母である班子女王が主催した宮廷の歌合わせ――平安貴族が優雅な感性を競う場――で披露されたものです。
平安時代の恋愛は、男性が夜ごと女性の家に「通う」ことが普通でした。ただし、その恋は世間の目やしがらみに常に晒され、昼間はもちろん、夜や夢の中でさえも自由に心を通わせることは容易ではありませんでした。本歌では、岸に寄せる波、「寄る」という響きと、「夜」「寄る」の掛詞で見事に言葉を操り、昼だけではなく夜、それどころか夢の世界でさえ、恋人が自分のもとへ来てくれないことへの寂しさ、不安、そしてときに自分自身の臆病さを詠んでいます。
夢の通い路(夢の中の道)は、当時とても重要な意味を持ちました。現実に会えなくとも、夢の中で恋しい人と会う。夢の内容如何によっては、相手が自分をどう思っているかを探ったり、将来を占ったりもしたのです。しかしここでは、夢の中ですら恋人は人目を気にして会いに来てくれない、それによって自分の愛が失われつつあるのでは、という不安な想いが滲み出ています。
しかも、「人目よくらむ」の主語を自分にとっても(=夢の中でさえも自分が人目を避けてしまう)、と多義的な解釈ができるのも、この歌の奥深いところです。波という自然の流れと、恋のゆらぎ――どちらも時に激しく、時に消え入りそうなもの。その様子と、平安貴族らしい柔らかな言葉遊びや心の揺れを重ね合わせた珠玉の恋歌です。「夢の通い路」という幻想的なテーマと、岸に寄る波の繰り返しのイメージが、恋のたよりなさ、誰にも気づかれまいとする想いをより一層際立たせています。

【歌の載っている歌集】

『古今和歌集』~平安の恋と美意識を伝える和歌の宝庫~

『古今和歌集』は、平安時代に編纂された日本初の勅撰和歌集です。延喜五年(905年)、醍醐天皇の命により紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)らによって選ばれました。全20巻にわたるこの歌集は、およそ1,100首もの和歌を収録し、「四季」「恋」「雑」などテーマごとに分類されています。『万葉集』に比べて、より繊細で優美な言葉遣いや、感情の機微、深い余情を大切にするところが大きな特徴です。
とりわけ「恋」の部は、貴族社会における男女の秘めた想い、押さえきれない情熱の高まり、そして叶わぬ恋の切なさが繰り返し歌われています。恋愛や結婚のスタイルが現代とは異なり、当時は男が女のもとへ夜ごと「通う」ことが中心。直接的な表現よりも、仄(ほの)めかしや掛詞、自然の情景を借りて自身の心情を表す文化がありました。「夢」や「波」「夜」のようなイメージで想いをほのめかす。そのため、今回の藤原敏行の歌のように「波」「夜」「夢」など一つひとつの語句に、複数の意味や深いニュアンスが込められている場合が多いのです。
また、『古今和歌集』は詞書(ことばがき)と呼ばれる歌の前置きにも特徴があります。いつ、誰がどんな時に詠んだのか、歌の背景やエピソードが簡単に記されています。敏行のこの歌には「寛平御時后宮の歌合の歌」と記されていました。つまり、宮廷で行われた公式の歌合わせという場で披露された歌です。こういった華やかな場では、美しさだけでなく、機知や繊細な感受性も求められ、多くの歌人が才覚を競い合っていました。
『古今和歌集』以降、和歌は日本文化を代表する芸術となり、これが百人一首や様々な歌集、カルタ遊びなどにも受け継がれていきます。今も昔も、恋の悩みや淡い期待に胸を焦がした経験が誰にもあるように、この歌集の「恋の歌」は、時代を超えた共感を呼び続けているのです。

【作者についての解説】

藤原敏行(生年未詳~901年、または907年説あり)は、平安時代前期の歌人であり、三十六歌仙のひとりです。父は藤原富士麿。歌人としての名声以外にも、官人として右兵衛督、四位上に任ぜられるなど朝廷からの信任厚かった人物でした。
敏行は、自然の情景を巧みに取り込み、繊細な心情表現を得意とする歌人です。また、巧みな枕詞や掛詞を用い、言葉遊びに秀でていた点からも、高い教養と豊かな感性を持っていたことが窺えます。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」など、季節の移り変わりや心のひだを優美に歌い上げる作品が多く、多くの和歌が「古今集」やその後の勅撰集に選ばれています。
敏行には能書(書の名人)としての側面もあり、同時代最高と評されたその書は、空海(弘法大師)に匹敵するとまで言われました。右筆として重要な文書作成や儀式の記録を担うこともあったと言われており、当時の貴族社会において多彩な才能を持った人物でした。
その人柄については、真面目で誠実、温和で気配りに富んだエピソードが数多く伝わっています。宮廷の歌合の場でも、その場の空気を和ませつつ、そっと人を思いやるような温かみが感じられると評されてきました。また、身分に驕(おご)らず実直に生き、歌にも儀式にも誠実に向き合い続けた姿勢は、現代人にも大いに学ぶ点があるでしょう。
同時代の歌人たちと切磋琢磨しつつも、敏行は常に心の機微や人の想いに寄り添い、「誰もが共感を覚える歌」を目指しました。そのためか、彼の恋歌は今なお多くの人に「自分のことのように」感じさせてくれます。特に今回ご紹介した歌をはじめ、人々の心にそっと寄り添い、温もりある人間味を感じさせる和歌が多いのが特徴です。

【参考文献】

  • 佐伯梅友校注『新編日本古典文学全集8 古今和歌集』小学館
  • 久松潜一・佐佐木信綱編『新編 国歌大観』角川書店
  • 小西甚一『百人一首の世界』岩波新書
  • 木村紀子『百人一首ひらがな訳と解説』PHP研究所

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