【石川啄木】『36選』 経歴・短歌・知られざるエピソードを徹底解説

椿Camellia japonica

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波乱に満ちた26年の生涯

日本近代文学史のなかで、今なお多くの人の心を惹きつけ続けている歌人、石川啄木。彼の名前を聞けば、多くの方が高校時代の教科書や短歌で一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
しかし、その生涯や人柄、人生の中でどのような経験を重ね、どんな思いで歌を詠んできたのかを詳しく知る人は、それほど多くありません。

石川啄木の人生は、少年時代の輝かしい学業成績や文学への目覚め、青春期の苦悩と挫折、家族への責任を背負いながらも創作活動をやめなかった信念、そして新しい短歌の道を切り拓いた情熱と、それをたった26年間という短い人生で貫き通した強さに満ちています。

彼の生い立ちから晩年までを丁寧にたどるとともに、親しみやすい語り口でその人柄を紐解きます。さらに、啄木にまつわる珠玉のエピソードをご紹介し、彼の短歌や詩がどのような思いから生まれたのか、その背景に迫ります。

短い生涯ながらも日本文学史に燦然と輝く石川啄木の足跡は、今の私たちにも多くの気づきと学びを与えてくれます。この記事を読み終えたころには、「石川啄木って、実はこんな人だったんだ」と、ぐっと身近に感じていただけるはずです。

【生い立ちと勉学――岩手から始まった文学の道】

石川啄木、本名・石川一(いしかわ はじめ)は、1886年(明治19年)2月20日、岩手県日戸村(現在の盛岡市)の常光寺に生まれました。父はお寺の住職。その長男として育った啄木は、幼い頃は寺の隣村・渋民村にある宝徳寺で過ごします。子ども時代から非常に聡明で、渋民小学校ではいつも首席を争うほどの成績をおさめ、先生や近所の人からも“できる子”として一目置かれる存在でした。

小学校卒業後は、地域でも有数の進学校である盛岡高等小学校へ進み、その先の盛岡中学校にも合格します。この中学校入学が、後の彼の運命を大きく左右することになります。

【運命的な出会い――文学への愛と決意】

中学生になった啄木は、ある日、先輩から「明星」という新しい文芸雑誌を手渡されます。当時、「明星」は革新的な表現や新しい詩の世界を切り開く存在で、多くの文芸青年を夢中にしていました。その中でも、とりわけ与謝野晶子の「みだれ髪」に心奪われます。16歳の啄木は、「自分もこんなふうに人を動かす文学をつくりたい」と強く思うようになります。これが、啄木の“文学の道”のはじまりです。

一方で、同時期にクラスメートで後に妻となる堀合節子(ほりあい せつこ)との恋愛も生まれました。青春真っ盛りの啄木は、夢と恋に心を奪われ、だんだんと勉強に身が入らなくなっていきます。

【青春期の葛藤――挫折、そして再起】

文学への情熱と初めての恋愛。そのどちらにも一生懸命になり過ぎた啄木は、いつの間にか学校の成績が低下。さらに、不正行為(カンニング)も重なり、ついに盛岡中学校を退学処分となってしまいます。退学は啄木にとって大きな挫折でしたが、それでも彼は前を向きます。

1902年(16歳)、運命を変えるできごとが起こりました。それは、「明星」への処女作短歌掲載です。彼の短歌は、編集長・与謝野鉄幹にも認められ、“啄木”の号(ペンネーム)をもらいます。さらに、最初の詩集『あこがれ』も出版され、啄木は一気に文学界の注目を集める若き詩人となるのです。

【家族への責任――父の失職と生活苦】

しかし、輝かしいデビューとは裏腹に、家庭では大きな苦難がおとずれます。父が住職の職を辞めざるを得なくなり、一家の大黒柱となったのは啄木自身でした。20歳を過ぎたばかりなのに、家計を支えるため、渋民小学校で臨時の教員として働くことになります。それでも詩作や短歌は諦めませんでした。

やがて節子と結婚しますが、生活はますます厳しくなります。少しでも家計を支えようと、1907年には北海道へ渡ります。しかし、函館・札幌・小樽・釧路と各地を転々としながらも、安定した仕事には恵まれませんでした。飢えや貧困とも戦いながら、啄木は言葉を紡ぎ続けました。

【短歌の革新者――「一握の砂」と新風】

苦難の日々のなか、啄木はさらに表現を磨いていきます。1910年、彼は東京朝日新聞社で校正係の職を得て生活基盤をようやく整え始めます。そのかたわら、「毎日新聞」「朝日新聞」などを通じて、日常の小さな出来事や微細な感情を丁寧に歌う独自の短歌を発表します。

この年、「朝日歌壇」の選者となり、歌集『一握の砂』を世に出します。従来の短歌の枠にとらわれず、一つひとつの歌を三行で表現するなど、斬新な形式とリアルな生活感あふれる歌風で大きな注目を集めました。“短歌とはこんなに生き生きとしたものなんだ”――啄木の歌は、広く人々の心に響きました。

【早すぎる別れ――啄木の最期と遺したもの】

苦しい生活のなかでも筆を止めなかった啄木ですが、1912年、結核を患い、わずか26歳という短い生涯を閉じることになります。最期まで家族を想い、弱気になりながらも創作にすべてを捧げました。

その短い人生で綴られた言葉たちは、後世の文学界において“近代短歌の革新者”として語り継がれています。哀しみや愛、弱さや強さが織り交ぜられた啄木の短歌は、今も私たちの胸を打ち続けてやみません。

【人柄が垣間見える小エピソード】

啄木の家には、いつも友人や知人が出入りし、困っている人がいれば分け隔てなく助ける優しい性格だったといいます。たとえ自分が貧しくても、「困っている人には分けてあげたい」という思いを大切にしていました。

また、家族思いの一面もよく知られています。苦しい生活の中でも、母や妻を気遣い、あたたかい言葉をかけ続けたのは啄木らしさの表れです。一方、理想に生きるがあまり自分の弱さや現実とぶつかることも多く、そうした率直な姿が彼の詩や短歌にも強く反映されています。

石川啄木 短歌①

青空に消えゆく煙/さびしくも消えゆく煙 /われに似るしか  『一握の砂』

秋立つは水にかも似る/洗はれて/思ひことごと新しくなる

いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて堀りてありしに

いつも逢ふ電車の中の小男の/稜ある眼/このごろ気になる

いつも来る/この酒肆のかなしさよ/ゆふ日赤赤と酒に射し入る

いと暗き/穴に心を吸はれゆくごとく思ひて/つかれて眠る

いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/ 握れば指のあひだより落つ

おそ秋の空気を/三尺 四方ばかり/吸ひてわが児の死にゆきしかな

親と子と/はなればなれの心もて静かに対ふ/気まづきや何ぞ

かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川

汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも

教室の窓より遁げて/ただ一人/かの城址に寝に行きしかな

銀行の窓の下なる/舗石の霜にこぼれし/ 青インクかな

かうしては居られずと思ひ/立ちにしが/ 戸外に馬の嘶きしまで

こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後のこの疲れ

不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心

 

石川啄木 短歌②

こそこその話がやがて高くなり/ピストル鳴りて/人生をは

子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな

さいはての駅に下り立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき 

しつとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地おぼゆる

死ぬばかり我が酔ふをまちて/いろいろの /かなしきことを囁きし人

吸ふごとに/鼻がぴたりと凍りつく /寒き空気を吸ひたくなりぬ

底知れぬ謎に対ひてあるごとし/死児のひたひに/またも手をやる

大海にむかひて一人/七八日/泣きなむとすと家を出でにき

大という字を百あまり/砂に書き/死ぬことをやめて帰り来れり

誰そ我に/ピストルにても撃てよかし/伊藤のごとく死にて見せなむ

たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず

つくづくと手をながめつつ/おもひ出でぬ /キスが上手の女なりしが

手套を脱ぐ手ふと休む/何やらむ/こころかすめし思ひ出のあり

東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて /蟹とたはむる

遠くより/笛ながながとひびかせて/汽車今とある森林に入る

何すれば/此処に我ありや/時にかく打驚きて室を眺むる

函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/ 矢ぐるまの花

はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ちっと手を見る

春の雪/銀座の裏の三階の煉瓦造に/やはらかに降る

馬鈴薯のうす紫の花に降る/雨を思へり/都の雨に

 

【参考文献】

  • 『石川啄木伝』小田切秀雄(岩波新書)
  • 岩波文庫『石川啄木歌集』
  • コトバンク「石川啄木」 
  • 朝日新聞デジタル「石川啄木特集」 
  • 盛岡市公式観光情報サイト

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