【岡本かの子】『5選』生涯と作品世界~歌人・小説家の真実

芍薬

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【岡本かの子の人物像と生涯】

岡本かの子(おかもとかのこ)は、1889年3月1日に東京都で誕生し、1939年2月18日に50歳の若さでその生涯を閉じた、大正・昭和期を代表する小説家・歌人・仏教研究家です。その人生は、時代の潮流を鮮やかに切り拓いた「奔放さ」と「独創性」にあふれています。

岡本かの子の本名は阿川カノ。病院を営む家庭に生まれ、幼少期から文学に親しむ機会に恵まれました。女子学院高等科を卒業後、短歌や詩に強い興味を持ち、若くして歌人としてデビュー。与謝野晶子や与謝野鉄幹ら詩歌結社「新詩社」に参加し、「明星」に作品を発表し始めます。与謝野晶子との出会いは、岡本かの子の人生に大きな転機をもたらします。晶子の影響で伝統的な和歌の枠を超えた自由で新しい短歌を作りはじめ、若き日の岡本はまさに「新しい女」として大正ロマンの象徴的存在となりました。

彼女のもうひとつの転機となったのは、岡本一平との結婚です。一平は漫画家・随筆家としても名を馳せた才能ある人物であり、二人は互いに刺激し合いながら創作活動を続け、息子・岡本太郎(著名な芸術家)を育てました。家庭生活と創作を両輪にしたその姿勢は、伝統的な女性像に甘んじない“自立した女性”像の体現そのものでした。かの子の作品には母性愛と女性のエネルギー、そして自由な精神があふれており、新しい時代の息吹を感じさせます。

また、仏教に深い関心を寄せ、各地の仏像や宗教美術を研究するなど精神世界の探究にも没頭。晩年には多数の著作や評論、エッセイを発表しました。1938年から1939年にかけては病を抱えながらも精力的に執筆。代表作には『母子叙情』『老妓抄』『鶴は病みき』などの小説、歌集として『瑞雀』『母子叙情』『春燈抄』などが挙げられます。

岡本かの子は、波乱万丈な私生活・家庭や多くの出会い、失意や挫折も経験しながら、そのすべてを創作へと昇華しました。戦前日本を生きた女性歌人・作家として、今も多くの人に影響を与え続けています。

【時代背景・出来事】

岡本かの子が活躍した大正から昭和初期(1912年~1930年代)は、日本社会が西洋文化の波を受け、産業化・都市化が急速に進んだ時代でした。大正デモクラシーと呼ばれる自由主義運動や女性解放運動が盛んになり、新しい女性像「モダンガール」が台頭。芸術・文学の分野では新しい言語表現や個性が求められ、歌人たちも伝統の枠を超えて新たな表現を探究します。

歌壇の中心に君臨した与謝野鉄幹、晶子夫妻の影響下、「明星」「スバル」などの結社が隆盛。若い女性歌人の登場も相次ぎました。また海外文学の流入により、エピキュリアン(快楽主義)や自然主義文学、象徴主義など新派の芸術思想が日本にも根付いていきました。

やがて昭和に入り社会は経済的混乱期に突入。15年戦争(満州事変~日中戦争など)の影、家父長的な価値観の復興、知識女性への風当たりの強さも増しましたが、岡本かの子は持ち前の自立心と知性で文学・芸術・宗教とジャンル横断的に活躍します。前例のない自由な発想、女性らしさを超えた母性の強調、そして人間の根源を見つめ直す作風は、現代に至至るまで新鮮な光を放っています。

岡本かの子 短歌

貝などのこぼれしごとく我が足の爪の光れる昼の湯の底

唇を打ちふるはしてもだしたるかはゆき人をかき抱かまし

多摩川の清く冷くやはらかき水のこころを誰に語らむ

血の色の爪に浮くまで押へたる我が三味線の意地強き音

ともすればかろきねたみのきざし来る日かなかなしくものなど縫はむ

 

岡本かの子は、その生涯を通して日本近代文学・歌壇に多大な足跡を残しました。東京都生まれ、1900年代に歌人として頭角を現し、与謝野晶子ら明治・大正の文学巨匠らと交流。家庭では岡本一平・太郎とともに芸術一家を築き、自立と愛情を両立させながら奔放な創作を続けました。

社会は大正デモクラシー・都市化・女性の自立など激動の最中。岡本かの子は女性でありながら男性中心の文学界で個性派として存在感を放ち続けます。その詩歌や小説には母性愛・生命賛歌・宗教観が濃く反映され、時代を超えて読む者に勇気と感動を与えています。特に晩年の作品群は“死を意識しつつ生ききる”執念が色濃く、時代背景や家庭、仏教研究の影響も見逃せません。

【参考文献・引用元】

  • 『近代文学事典』日本近代文学館編(講談社、2005年)
  • 「国語論文・文学史年表」講談社学術文庫
  • 東京都立図書館デジタルアーカイブ「作家別人名辞典」

 

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