山の歌の遍歴
日本は山国といわれるように、国土の三分の二は山地です。山は万葉の昔から歌には多く詠まれてきました。その山には、高山と低山とがあり、人との生活からみれば奥山と里山とに分けられます。
また、神の宿る神聖な場所であり、俗人の立ち入りを絶する畏敬の念を持ったものが「山」の通念でありました。昔から山は神さまの宿る場所として、古来より人々は深い敬意を抱き、山の恵みに感謝しながら自然とともに暮らしてきたのです。
歌には、山道を歩いて読んだの歌から、時代が下るにつれて形式化へ陥って行く傾向がありました。和歌の歴史を振り返ると、奈良時代から短歌は存在し、平安時代以降は和歌と呼ばれるようになりました。この時代の和歌は序詞や縁語、歌枕といった修辞を重要視し、それらが世代を超えて伝えられ詠まれていきました。
山の歌の表現が大きく変わるのは明治の和歌革新以後で、写生ないしは写実の方法が短歌に導入されてからのことです。明治時代初期の歌壇は前代に引き続き、桂園派を主とする御歌所派が中心となって貴族的・伝統的な文化を担っていましたが、和歌改良を志す人々はその題詠による作歌・風雅な趣向を批判し、自由と個性を求める近代短歌を開きました。
特に正岡子規が明治31年(1898年)に『歌よみに与ふる書』を発表し、万葉への回帰と写生による短歌を提唱したことが大きな転換点となりました。子規の「写生」という概念は、後に斎藤茂吉によって「生を写す」という解釈が施され、より深みを増していきます。
明治期以降、山を詠んだ短歌は多様な表現を見せるようになりました。石川啄木は「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」と郷愁を込めて詠み、前田夕暮は「自然がずんずん体のなかを通過する 山、山、山」と直截的な表現で山との一体感を表現しました。会津八一、窪田空穗、佐佐木信綱、斎藤茂吉、若山牧水など、多くの近代歌人たちが、それぞれ独自の感性で山を詠んでいます。
現代では、写実に拠らない歌もあります。想像力によって山を思う歌、山を特定せず抽象化して詠む歌などです。そして自然に存在しない山の表現もあります。短歌の表現技法は多様化し、音韻的な要素や詠嘆調なども重視されながら、山という存在は今なお詠み継がれています。
日本の国土の大半を占める山々は、奥山あり里山もある豊かな風景として、万葉の時代から現代に至るまで、変わることなく人々の心に深く刻まれ、短歌という形式で表現され続けているのです。山を詠む短歌は、日本人の自然観や精神性を映し出す鏡として、これからも進化し続けることでしょう。
山の短歌(和歌)
富士の嶺を高み恐み天雲をい行きはばかりたなびくものを 高橋虫麻呂
立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとそ 大伴家持
秋山の黄葉をしげみ惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも 柿本人麻呂
笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば 柿本人麻呂
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへも知らぬわが思哉 西行
槍が岳そのいただきの岩にすがり天の真中に立ちたり我は 窪田空穗
行けと行けど白檜しげれる深き山霧濃くなりて夕ぐるるらし 藤沢古実
鎖場につづく鎖場に鎖つかみつかみて岩を踏まへつつ攀づ 片山貞美
自然がずんずん体のなかを通過する―山、山、山 前田夕暮
雲の上に濃き藍を乗せ霜月の立山連峰ぐいとひろらに 佐佐木幸網
いただきは雪かもみだる真日くれてはざまの村に人はねむり 斎藤茂吉
黄金の落葉松はいと高らかに笑ひゐて蔵王の深き沈黙 馬場あき子
ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな 石川啄木
国に事ありものみな動く秋にして山は静けくもみぢ葉を積む 岡本かの子
立山が後立山に影うつす夕日の時の大きしづかさ 川田順
雪にまみれ真白となれる道標幽かなる世を指し示すらし 来嶋靖生
喪のいろのたぐひとおもふもんぺ穿き山の華麗に対はむとする 葛原妙子
とげとげしき山の姿に在り馴れしこの国人よなめらかならず 斎藤史
地中銀河と言はば言ふべし富士山の胎内ふかく行く寒き水 高野公彦
星あらぬ空を戴き山上に眠れり触れしその夜のごと 水原紫苑
地図になきスラムの名前 煙なす「スモーキーマウンテン」 塵芥の山 俵万智
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