大伯皇女 (おおくのひめみこ)
【誕生と家族】
斉明天皇7年(661年)2月12日、新羅征討のため筑紫へ向かう途中、瀬戸内海の大伯(現在の岡山県瀬戸内市沿岸)を航行中の天智天皇一行の船上で誕生。このため「大伯皇女」と名付けられました。
父:天武天皇
母:大田皇女(天智天皇の皇女)
弟:大津皇子(663年生)
【幼少期の不幸】
天智天皇6年(667年)、わずか6歳で母・大田皇女を失います。母は小市岡上陵の前に埋葬されました。
【斎宮としての奉仕】
・天武天皇2年(673年)4月14日:12歳で斎王に選出され、泊瀬斎宮に入る
・天武天皇3年(674年)10月9日:伊勢神宮に下向
・約13年間にわたり、天照大御神に奉仕
【人生の転機と悲劇】
朱鳥元年(686年)、二つの大きな悲劇に見舞われます:
- 父・天武天皇の崩御
- 弟・大津皇子の謀反による処刑(10月3日)
これらの事件により11月16日に斎宮の任を解かれ、都に戻ることになります。
【晩年】
・飛鳥に戻った後、皇子宮を与えられる
・大津皇子の死を深く悼み、『万葉集』に6首の歌を残す
・大宝元年(702年)1月29日、41歳で薨去
【歴史的意義】
・制度として確立された斎王の初代として重要な位置を占める
・『万葉集』に収められた和歌は、姉の弟に対する深い愛情を歌い上げた傑作として高く評価されている
【遺跡・史跡】
・三重県名張市の夏見廃寺(国史跡)は、大伯皇女の発願により建立された昌福寺の跡とされる
・飛鳥池遺跡からは「大伯皇子宮物」と記された木簡が出土
大伯皇女 和歌
弟・大津皇子が密かに伊勢を訪れた時の歌
「我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我れ立ち濡れし」
(わが愛しい弟を大和へ帰すとて、夜更けに見送り、夜明けの露に濡れながら立ち尽くしていた)別れを惜しむ歌
「ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ」
(二人でも越えるのが難しい秋の山を、どうして君はひとりで越えていくのだろうか)大津皇子の死後、帰京の際に詠んだ歌
「神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに」
(神々の国である伊勢にいればよかったものを、なぜ帰ってきてしまったのだろう、もう君もいないというのに)弟の遺体が二上山に移葬された時の歌
「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」
(この世に生きている私は、明日からは二上山を我が弟と思って見つめていくことでしょう)磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すベき君がありといはなくに 『万葉集』
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