【前 登志夫】『51選』吉野の自然と共に歩んだ歌人・前登志夫の世界

椿

椿

歌人・前登志夫の生涯と作品

前登志夫(まえ としお)は1926年、奈良県吉野の山村に生まれました。本名を前登志晃(まえ としあき)といい、日本を代表する歌人・詩人として多くの作品を残しました。同志社大学経済学部に学びますが中退し、戦後は故郷の吉野を離れて詩人としての道を歩み始めます。

しかし、やがて吉野に帰郷し、そこで民俗学や日本古典に親しみながら詩作を続けました。彼の創作活動における転機は1955年(昭和30年)、前川佐美雄に入門したことで訪れます。この出会いをきっかけに短歌の世界へと足を踏み入れることになりました。

1956年には詩集『宇宙駅』を出版。その後、父祖代々続いてきた山村の生活に定着し、豊かな自然を背景とした土俗的な歌風を確立していきます。1964年に発表された歌集『子午線の繭』は文学界で高く評価され、1965年には第9回現代歌人協会賞の候補となりました。

前登志夫の作品は、吉野の山々や森、そこに生きる動植物との深い交流を描き出しています。彼の歌には自然との一体感や、古来からの日本人の精神性が色濃く反映されており、現代短歌の中でも独自の位置を占めています。

歌誌「ヤママユ」を主宰し、多くの後進の育成にも力を注ぎました。「ヤママユ」という名前は、山に生息する蚕(まゆ)に由来し、彼の山村への深い愛着を表しています。

その後も精力的に創作活動を続け、1978年には『縄文記』で第12回迢空賞、1988年には『樹下集』で第3回詩歌文学館賞、1992年には『鳥獣蟲魚』で第4回齋藤茂吉短歌文学賞、1998年には『青童子』で第49回読売文学賞、2003年には『流轉』で第26回現代短歌大賞を受賞するなど、数々の栄誉に輝きました。

前登志夫の短歌は、現代的な感性と古典的な美意識が融合した独特の世界を形成しています。彼の作品には、吉野の深い森や清らかな水、そこに生きる生き物たちへの鋭い観察眼と温かいまなざしが感じられます。また、日本の古層に根ざした神話的イメージや、縄文時代からの連続性を意識した作品も多く、日本人の精神性の根源を探る試みとしても評価されています。

彼の短歌は形式的にも革新的で、伝統的な五七五七七の形式を守りながらも、独自のリズムと言葉の選択によって新しい短歌の可能性を切り開きました。特に自然と人間の関係性を描く際の繊細さと大胆さは、多くの読者や後進の歌人たちに影響を与えています。

2008年に82歳でこの世を去るまで、前登志夫は吉野の自然に寄り添いながら創作活動を続けました。彼の残した作品群は、現代の喧騒から離れた山村での静かな暮らしの中から生まれた、かけがえのない文学的遺産となっています。

前登志夫の全歌集は2013年に短歌研究社から出版され、「子午線の繭」「靈異記」「繩文紀」などの代表作が収められています。彼の作品世界を知るための貴重な資料として、多くの図書館に所蔵されています。

前 登志夫 歌集

1964年 『子午線の繭』 白玉書房

1972年 『霊異記』 白玉書房

1976年 『非在』 自選歌集 短歌新聞社

1977年 『繩文紀』 白玉書房

1978年 『前登志夫歌集』 国文社

1981年 『前登志夫歌集』 小沢書店

1987年 『樹下集』 小沢書店

1992年 『鳥獣虫魚』 小沢書店

1997年 『青童子』 短歌研究社

2002年 『流轉』 砂子屋書房

2003年 『鳥總立』 砂子屋書房

2005年 『前登志夫歌集』 短歌研究社

2007年 『落人の家』 前登志夫歌集 雁書館

2009年 『大空の干瀬』 前登志夫歌集 角川書店

2009年 『野生の聲』 本阿弥書店

2013年 『前登志夫全歌集』 短歌研究社

前 登志夫 短歌

泡だちて昏るる麦酒ビールにたぎつもの革命と愛はいづこの酒ぞ 『子午線の繭』

アンテナの林ある丘きらめきていかなる神を祠らむとする

いくたびか戸口の外に佇つものを樹と呼びてをり犯すことなき

泉より水汲みあぐる少女をとめらの息づきあり あかときの壺

岩の上に時計を忘れ来し日より暗緑のその森を怖る 

海にきて夢違ゆめちがへ観音かなしけれとほきうなさかに帆柱は立ち

帰るとは幻ならむ麦の香の熟れる谷間にいくたびか問ふ 

崖のにピアノをきかむ星の夜の羚羊かもしかは跳ベリボンとなりて 

かげりあふ杉の木の幹幾百にみつめられたり耳朶欠け落つる

褐色の鉄橋をわたり汽車けり往けりどの窓も淡く河を感じて

林檎

林檎

かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり

暗道くらみちのわれの歩みにまつはれる蛍ありわれはいかなる河か

くろぐろと朽ちたる門をとざしたり山火事は幾日いくか山につづきて 

この岩が蛙のごとく鳴くことを疑はずをりしろきあめ

地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり

はり太き土間にもの食べをりしかば朝ちの馬出づる靄なり

灯のしたにさかなの骨をることも禁慾に似て四月となれり

部屋にひびく早湍はやせをさかなのぼる夜に鉛筆を削り突刺さる Vie

繭のなかみどりの鬼が棲むならむ透きとほる糸かぎりもあらぬ 

みづからの足あとをゆくさがなれば雪とける日は神にし会はむ 

椿

椿

水上みなかみへ舟曳きていく男らの毛脛かがやきわれらも過ぎれむ 

めぐりあへず林檎三つを求むれば果実の目方はかられたりき  

夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ  

夜の厚き閉せるドアを叩きゐる植物のごときわが手を見けり  

わが柩ひとりの唖に担がせて貧のかげ透く尾根越えにゆけ  

おお!かなかな 非在の歌よ、草むらに沈める斧も昨夜きぞの反響 『霊異記』

木がくれに一つ蝉鳴き朝こそは泉の水に近づかむとす

さくら咲くその花影の水に研ぐ夢やはらかしあしたの斧は

杉山に入りきておもふ半獣のしづけさありて二十年経る  

寒の水あかとき飲みてねむりけりとほき湧井の椿咲けるや 『縄文紀』

大山蓮華

大山蓮華

恍惚とくれなゐの葉を落しゐるさくらを伐ればかりがね渡る  

たかだかとほほの花咲く、敗れたるやさしき神もかく歩みしか

みなかみに筏を組めよましらども藤蔓をもて故郷をくくれ  

山の樹に白き花咲きをみなごの生まれ来につる、ほとぞかなしき  

銀河系そらのまほらを堕ちつづく夏の雫とわれはなりてむ 『樹下集』

草萌えろ、木の芽も萌えろ、すんすんと春あけぼのの摩羅のさやけさ

しろがねの水噴きあぐる冬の日にわがあかがねのあたまを垂るる  

戦ひに死にたる兄よ―かにかくに父母ちちははふたり見送りまつりき  

ほのぼのとわれ気狂ふや夏草にさびしく汗は噴き出づるかな

山霧のいくたび湧きてかくるらむ大山蓮華おおやまれんげ夢にひらけり

藤の花

藤の花

岩押して出でたるわれか満開の桜のしたにしばらく眩む 『鳥獣虫魚』

木木の芽に春のみぞれのひかるなりああ山鳩の声ひかるなり  

国原に虹かかる日よ鹿のごと翁さびつつ山を下りぬ  

野鼠のひたすら走る国原に冬の虹大きくかかる 

炎天に峯入りの行者つづく昼山の女神を草に組み伏す 『青童子』

巡礼のふところ掠めこし風かやまなみあをく読経をすらむ  

杉山に夕日あたりぬそのかみの蕩児のかヘり待ちて降る雨  

父よ父よ、われらはつねに孤独にて王者のごとく森の胡座居  

年とればかくもよき顔天然にもどりてただに草生にをどる  

ふるくにのゆふべを匂ふ山桜わがあやめたるもののしづけさ  

ほのかなる山姥となりしわが妻と秋咲く花 の種を蒔くなり (歌集未収録)

 

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