中城 ふみ子 (なかじょう ふみこ)
1922~1954年 北海道帯広市生まれ。歌人。旧姓、野江富美子。妹、野江敦子も歌人。
1939年、帯広高等女学校卒業。東京家政学院在学中に池田亀鑑に師事。1947年「新墾」に入社。1948年、「辛夷短歌会」の会員になる。1951年、中城博と離婚。離婚後も中城を名乗る。1952年乳がん発病。1954年、短歌研究新人賞 (第1回50首詠)受賞。入選作が『短歌研究』4月号に掲載。同年7月、第1歌集『乳房喪失』を出版。
乳癌を患い、 自身の離婚・恋などを自己凝視の目と、想像力によって大胆な手法で詠う。戦後、前衛短歌の先駆けとなり、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。
歌集になった直後の8月3日死去。31歳。翌年、歌集(遺歌集)「花の原型」が刊行された。
中城ふみ子 著作
1954年 第1歌集『乳房喪失』 作品社
1955年 遺歌集『花の原型』 作品社
中城ふみ子 短歌
愛されしこともはるけく朝かぜに枝剪られある春の街路樹 『乳房喪失』
赤の他人となりし夫よ肌になほ掌型は温く残りたりとも
熱き掌のとりことなりし日も杳く二人の距離に雪が降りゐる
失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ
大楡の新しき葉を風揉めりわれは憎まれて熾烈に生たし
音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる
外界のはかなき壁としてふたりが持つ小鳥の籠とラテン音楽
悲しみの結実の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ
唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる
黒き裸木の枝に紐など見え乍ら縊れしわれは居らざる或日
子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙へり
コスモスの揺れ合ふあひに母の恋見しより少年は粗暴となりき
砕氷をとほく棄てにゆく馬車とならびて青の信号を待つ
捌かるる鞭なきわれのけだものはしらじらとして月光にとぶ
倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て
自転車のかげ長く西陽に曳きゆきてこの人もあまり倖せならず
忍びやかにけもののよぎる束の間の移り気よ春の雨温くふる
社会意識してと責めて記者きみが呉れゆきし三Bの太き鉛筆
衆視のなかはばかりもなく鳴咽して君の妻が不幸を見せびらかせり
手術室に消毒薬のにほひ強くわが上の悲惨はや紛れなし
出奔せし夫が住みゐるてふ四国目とづれば不思議に美しき島よ
シユミーズを盗られてかへる街風呂の夕べひつそりと月いでて居り
スケートの刃もて軟かき氷質を傷つけやまぬこの子も孤り
背のびして唇づけ返す春の夜のこころはあはれみづみづとして
たれのものにもあらざる君が黒き喪のけふよりなほも奪ひ合ふべし
とんぼの翅惨くむしれる少年よ汝の父には愛されざりし
乳牛の豊かなる腹照らし来し夕映ならむわれも染まらむ
灰色の雪のなかより訴ふるは夜を慰やされぬ灰娘のこゑ
母を軸に子の駆けめぐる原の昼木の芽は近き林より匂ふ
春のめだか雛の足あと山椒の実それらのものの一つかわが子
春芽ふく樹林の枝々くぐりゆきわれは愛する言ひ訳をせず
光りたる唾ひきしキスをいつしんに待ちゐる今朝のわれは幼し
ひざまづく今の苦痛よキリストの腰覆ふは僅か白き粗布のみ
冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか
無縁なるものの優しさ持ち合ひて草食む牛とわれとの日昏れ
メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ
ものの言へば声みな透る秋日ざしわれの怒りもはかなくなりぬ
もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず
やきつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ
われに似しひとりの女不倫にて乳削ぎの刑に遭はざりしや古代に
われに最も近き貌せる末の子を夫がもて余しつつ育てゐるとぞ
死後のわれは身かろくどこへも現れむたとへば君の肩にも乗りて 『花の原型』
夏雲の湧きて止むなき願望の内にいつしかわれを失ふ
ヒマラヤに足跡を追ひ迫るとき未知の雪男よどこまでも逃げよ
放射能もつ魚となり漂はむわれに暮靄の海ひとつあれ
わがために命の燃ゆる人もあれ不足の思ひ誘ふ春の灯
悦びの如し冬藻に巻かれつつ牡蠣は刺を養ひをらむ 『定本中城ふみ子歌集』
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