前 登志夫 (まえ としお)
1926年~2008年 奈良県生まれ。歌人、詩人。本名、前 登志晃
歌誌 「ヤママユ」を主宰。
同志社大学経済学部中退。戦後、故郷吉野を離れて詩人として出発。吉野に帰郷ののちも、民俗学・日本古典に親しむ一方で詩作を続ける。1955(昭30)年、前川佐美雄に入門し短歌に転じる。1956年、詩集『宇宙駅』出版後、 父祖以来の山村生活に定着し、自然を背景とした土俗的な歌をつくる。1964年、歌集『子午線の繭』は大きな評価を受けた。
前 登志夫 歌集
1964年 『子午線の繭』 白玉書房
1972年 『霊異記』 白玉書房
1976年 『非在』 自選歌集 短歌新聞社
1977年 『繩文紀』 白玉書房
1978年 『前登志夫歌集』 国文社
1981年 『前登志夫歌集』 小沢書店
1987年 『樹下集』 小沢書店
1992年 『鳥獣虫魚』 小沢書店
1997年 『青童子』 短歌研究社
2002年 『流轉』 砂子屋書房
2003年 『鳥總立』 砂子屋書房
2005年 『前登志夫歌集』 短歌研究社
2007年 『落人の家』 前登志夫歌集 雁書館
2009年 『大空の干瀬』 前登志夫歌集 角川書店
2009年 『野生の聲』 本阿弥書店
2013年 『前登志夫全歌集』 短歌研究社
前 登志夫 短歌
泡だちて昏るる麦酒にたぎつもの革命と愛はいづこの酒ぞ 『子午線の繭』
アンテナの林ある丘きらめきていかなる神を祠らむとする
いくたびか戸口の外に佇つものを樹と呼びてをり犯すことなき
泉より水汲みあぐる少女らの息づきあり あかときの壺
岩の上に時計を忘れ来し日より暗緑のその森を怖る
海にきて夢違観音かなしけれとほきうなさかに帆柱は立ち
帰るとは幻ならむ麦の香の熟れる谷間にいくたびか問ふ
崖の上にピアノをきかむ星の夜の羚羊は跳ベリボンとなりて
昃りあふ杉の木の幹幾百にみつめられたり耳朶欠け落つる
褐色の鉄橋をわたり汽車けり往けりどの窓も淡く河を感じて
かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり
暗道のわれの歩みにまつはれる蛍ありわれはいかなる河か
くろぐろと朽ちたる門をとざしたり山火事は幾日山につづきて
この岩が蛙のごとく鳴くことを疑はずをりしろき天の斑
地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり
梁太き土間にもの食べをりしかば朝発ちの馬出づる靄なり
灯のしたにさかなの骨を撰ることも禁慾に似て四月となれり
部屋にひびく早湍をさかなのぼる夜に鉛筆を削り突刺さる Vie
繭のなかみどりの鬼が棲むならむ透きとほる糸かぎりもあらぬ
みづからの足あとをゆく性なれば雪とける日は神にし会はむ
水上へ舟曳きていく男らの毛脛かがやきわれらも過ぎれむ
めぐりあへず林檎三つを求むれば果実の目方量られたりき
夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ
夜の厚き閉せる扉を叩きゐる植物のごときわが手を見けり
わが柩ひとりの唖に担がせて貧のかげ透く尾根越えにゆけ
おお!かなかな 非在の歌よ、草むらに沈める斧も昨夜の反響 『霊異記』
木がくれに一つ蝉鳴き朝こそは泉の水に近づかむとす
さくら咲くその花影の水に研ぐ夢やはらかし朝の斧は
杉山に入りきておもふ半獣のしづけさありて二十年経る
寒の水あかとき飲みてねむりけりとほき湧井の椿咲けるや 『縄文紀』
恍惚とくれなゐの葉を落しゐるさくらを伐ればかりがね渡る
たかだかと朴の花咲く、敗れたるやさしき神もかく歩みしか
みなかみに筏を組めよましらども藤蔓をもて故郷をくくれ
山の樹に白き花咲きをみなごの生まれ来につる、ほとぞかなしき
銀河系そらのまほらを堕ちつづく夏の雫とわれはなりてむ 『樹下集』
草萌えろ、木の芽も萌えろ、すんすんと春あけぼのの摩羅のさやけさ
しろがねの水噴きあぐる冬の日にわがあかがねのあたまを垂るる
戦ひに死にたる兄よ―かにかくに父母ふたり見送りまつりき
ほのぼのとわれ気狂ふや夏草にさびしく汗は噴き出づるかな
山霧のいくたび湧きてかくるらむ大山蓮華夢にひらけり
岩押して出でたるわれか満開の桜のしたにしばらく眩む 『鳥獣虫魚』
木木の芽に春の霙のひかるなりああ山鳩の声ひかるなり
国原に虹かかる日よ鹿のごと翁さびつつ山を下りぬ
野鼠のひたすら走る国原に冬の虹大きくかかる
炎天に峯入りの行者つづく昼山の女神を草に組み伏す 『青童子』
巡礼のふところ掠めこし風かやまなみあをく読経をすらむ
杉山に夕日あたりぬそのかみの蕩児のかヘり待ちて降る雨
父よ父よ、われらはつねに孤独にて王者のごとく森の胡座居
年とればかくもよき顔天然にもどりてただに草生にをどる
ふるくにのゆふべを匂ふ山桜わが殺めたるもののしづけさ
ほのかなる山姥となりしわが妻と秋咲く花 の種を蒔くなり (歌集未収録)
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